第2章 「専守防衛」登場の経緯
1. 米国の占領政策の追認
米国の狙いは日本を従属国家に
我が国の大戦後の政治思想を分析する場合、先ず気付くことは敗戦後の長期にわたる連合軍−その実態は米国軍−の軍事占領下に刷り込まれた考えが、知不識不のうちに大前提とされている点である。「専守防衛」についてもその例外ではない。米国の占領政策は「初期の対日占領政策」に銘記されている通り、日本が再び米国に対抗できないような国にすることに主眼があった。“民主化”の美名の下に実施されたのは、日本が近代国家として体をなさないようにするという目的に沿ったものであり、軍事的、経済的のみならず精神的な面でも弱体化政策が採用された。これを踏まえて、軍や財閥は解体され、重工業設備は賠償としてとられ、優秀な人材は公職追放の名の下に職を失った。精神面では、日本から歴史解釈権を奪い、米国流の歴史解釈を押し付けた。ちなみに、政治小説家・ジョージ・オーウェルは『1984年』の中で、「過去を支配する者は未来まで支配する」と喝破している。
日本にとって幸いだったのは、米ソ両国間の冷戦が激化し、それに続いて朝鮮戦争が勃発したことである。これによって、米国を中心とする占領軍の占領政策は一転する。武装解除した占領地の防衛は占領軍の任務であるが、朝鮮戦争勃発に伴って日本駐留米軍は朝鮮の戦場に派遣され、その穴埋めとして米国は日本の再軍備を認めざるを得なくなる。日本がソ連などの侵略の対象となる懸念が大きかっただけではない。占領当局が日本弱体化の一環として推進した左翼支援策のため、共産主義勢力による暴力革命が起こりかねない社会情勢にあったからだ。
ただ留意すべきは、米国の占領政策転換は日本の近代民族国家としての自立を是認するためではなく、日本をフィリピンのような、米国の従属国家にしておくという基本方針は変わっていなかったという点である。ロイヤル米陸軍長官が1948年(昭和23年)5月18日付でアチソン国務長官に提出した『日本の限定的再軍備』に関するメモランダムに記述されているように、「最も重要なことは、日本の進路が引き続き米国と共にあり、戦略的に重要な位置にある日本本土が我々のコントロール下に留まることである」というのが米国の一貫して変わらぬ本音である。14これはその後も変わっていない。当然の結果として、米国は警察予備隊、保安隊には米軍の補助部隊的な機能以上のものを保有させなかった。占領解除後、自衛隊になった段階でも、米国の対日政策の主流的考えは変わっていない。
「安保条約ビンの蓋論」が米国の本音
米国内には、対日政策をめぐって(1)日本を対米従属的な国家であり続けさせるためには、その軍事力を弱いまま放置し安全保障面で対米依存をせざるを得なくしておいた方がよいとする「ウイーク・ジャパン派」、(2)日本に国力相応の軍事力を保有させ、米国とともに国際社会の秩序維持の役割を果たさせるべきとする「ストロング・ジャパン派」−の2つの流れがある。遺憾ながら、米国の歴代政府、あるいは指導者階層には「ウイーク・ジャパン派」が多く、「ストロング・ジャパン派」はレーガン政権と現ブッシュ政権ぐらいである。米国の日本への日米安保条約第3条(所謂、バンデンバーグ条項)に基づく自助努力の要求や、1969年(昭和44年)の「自助の意思あるアジア諸国のみを支援する」とのニクソン・ドクトリンも、「ウイーク・ジャパン派」の基本姿勢の枠外にあるものではない。
特に、米国の経済が沈滞する一方、日本経済が旭日昇天の勢いで成長して『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』が発刊された80年代には、米国内に「経済が米国を凌駕しつつある日本が、一人前の軍事力を保有すれば米国のコントロールが効かなくなる」との焦燥感が強まった。この時期を含めて米国の対日防衛力増強は、米軍の“補完能力”の増強であって、“代替能力”の創設ではなかった。日本が国力相応の軍事力を保有しないようにする歯止め策となったのは、日米安保条約である。
米国の立場から見れば、日米安保条約には(1)米国のアジアにおける前進基地の確保、(2)日本の軍事大国化への歯止め、(3)日本の防衛−の3機能がある。このうち、2番目の機能を軍人的率直さで口にしたのが、在沖縄米軍司令官スタック・ポール少将(当時)の「日米安保条約は日本の軍国主義を封じ込めるためのビンの蓋」との発言である。この「安保条約、ビンの蓋論」は日本国内で物議を醸し、米国の政府当局者はこの見方を否定した。だが、「ビンの蓋論」は米国の指導階層のほとんどが口には出さないものの、心中に抱いている見方である。いずれにしろ、「専守防衛」は米国の対日政策にとっても好都合な政策だったのだ。
2. 吉田ドクトリンの惰性
防衛軽視が保守本流の基本姿勢
「専守防衛」の定着には、吉田茂元首相の政治姿勢が果たした役割も大きい。この吉田氏の政治姿勢は(1)経済重視、(2)防衛軽視、(3)国際問題不関与−の3点に要約される。吉田氏の政治手法は「吉田ドクトリン」とも呼ばれ、吉田氏の流れを引く保守本流政治家に継承された。政治手法には一般的にいって、実現すべき政治目標を掲げ、内外情勢と自己の政治力量の勘案しながら一歩一歩目標に近づく方法と、その時々の内外情勢に最も適切な政策を採用する方法の2つがあるが、吉田氏の手法は後者のやり方である。場当たり主義的な方法であり、実現に困難が伴う重要な政策が等閑視される欠点があるが、その一方、その時々の内外情勢に適合した政策を実施できるという長所もある。
吉田氏が首相在任当時に採用した経済重視、防衛軽視、国際問題不関与政策は、当時の日本の置かれた状況からいってやむを得ないものだった。戦争で国力が大きく疲弊し、占領下で国際問題に関与しようとしても相手にされない状況に置かれていた。また、占領下では日本の安全は占領軍が担う義務があり、防衛を軽視していてもよかった。問題は、保守本流政治家が、吉田氏が特定の内外情勢の下で採用した政策を、日本を取り巻く環境が一変し、国力が回復したにもかかわらず墨守した点にある。
吉田氏は当初、自衛のための軍事力保有も違憲との解釈をしていたが、戦力なき軍隊合憲論にコペルニクス的転換を図り、政界引退後は再軍備論を唱えるに至る。一見、変節漢に思えるが、吉田氏の政治手法を前提にすれば、内外情勢が変化したから政策を変えたに過ぎないということになる。保守本流政治家が吉田政治を継承しようとするならば、その時々の内外情勢を的確に把握し、それに適合した政策を随時採用することが必要であった。しかし、保守本流政治家は吉田氏の“政治手法”を学ばず、敗戦後の特殊事情下で採用した“政策の結果”だけを墨守したのである。「保守本流政治家の吉田政治知らず」というべきだが、「専守防衛」策はその代表的なものの一つである。むしろ、吉田政治の欠点を集約的に表しているのが、「専守防衛」ともいえる。
再軍備の路線を引いた保守本流政治家
我が国の再軍備の基本方針と規模を決定したのは、1953年(昭和28年)の池田・ロバートソン会談である。池田勇人氏(後の首相)および、この会談で同氏を補佐した宮沢喜一氏(後の首相)も、吉田学校の生徒である。この会談では日米間で、再軍備の規模として陸上兵力10個師団を保有することでは意見の一致を見たが、米側が一個師団の兵員を米軍と同じ3万数千人とするよう要求したのに対し、日本側は「専守防衛の日本の師団は1万8千人でよい」と主張したという。15その後、陸上自衛隊は将来定員を増やすということで、18万人のままで3個師団増やして13個師団にした。陸上自衛隊の一個師団の兵員数が諸外国の師団の旅団規模にも満たないのは、“専守防衛”策とそれを主張した保守本流政治家のせいである。
それだけではない。吉田ドクトリンを信奉している政治家や外交当局者の中には、意識して日米安保条約を「ビンの蓋」として利用している政治家がいる。これらの政治家や外交官は、日本の再軍備あるいは“軍国主義化”を懸念する諸外国、特にアジア諸国に「日米安保条約がある限り、自衛隊が侵略行動をとることはない」との弁明を繰り返している。当の政治家や外交官は気付いていないようだが、この発言は(1)日本人は軍事組織を自律的に運用する能力がないので、米国にコントロールされる必要性がある、(2)日米安保条約が解消されれば日本は軍国主義化する−ということを暗に強調しているに等しい。つまり、弁明どころか脅迫しているとも言え、アジア諸国の疑心暗鬼を生む原因になっている。
その点はともかく、その後、自民党内では保守本流政治家が主として政権を握ったこともあって、吉田政治が継承された。その結果、「専守防衛」策でも恙なく過ごせた内外情勢が、その後激変したにもかかわらず、「これまで専守防衛でうまくいったから」という理由だけで、過去の惰性で「専守防衛」が未だに継承されている。
14 大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集』第1巻(三一書房)pp.251〜252.
15 秦郁彦『史録 日本再軍備』pp.199〜200.文芸春秋社。
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