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4章 アジア・コーストガード・アカデミー構想のイメージ
 アジア・コーストガード・アカデミーに関する具体的なイメージは、海上保安庁が広島県呉市に設置している海上保安大学校に求めることができる。
 呉市の海上保安大学校では、海上保安官に必要な高等教育・訓練のカリキュラムが特別に編成されており、海上警備のプロフェッショナルを育成するために、自己完結型の教育・訓練を実施している。一般の社会科学・人文科学系の大学と異なり、明確な目的を達成するための高等教育・訓練が導入されている。
 本研究会が構想するアジア・コーストガード・アカデミーは、東アジア海域の安全保障を整備するための国際公共財であると同時に、日本の国益にも寄与するアジア国際海上保安大学校であり、日本が蓄積したノウハウを直接的に投影できる場でもある。優秀な海上保安官が輩出してきた呉市の海上保安大学校は、さまざまな分野でノウハウを蓄積しており、構想を具体化する上では海上保安大学校の関係者と密接な連携をとることが肝要であろう。
 アジア・コーストガード・アカデミーは、東アジア海域に位置する島国・海域国家を主体に構想される。本アカデミーで使用される共通言語は、英語とならざるをえない。現実問題としてASEANの共通言語は英語であり、政府・官僚・財界・学界・NGO(非政府組織)を多段階で巻き込む多国間のコミュニケーション手段は、ほぼ英語に限定されている。共通言語から本アカデミーの運用を考えると、アカデミー本部は東アジア海域における英語圏諸国が有力な候補となるであろう。
 さらに、本アカデミーのエクステンション・センター(分校)を、特定な教育や訓練を実施するうえで、本部以外の海域国家に設置することも考えられよう。
 この地域において、実質的に英語を公用語とするのは、シンガポール、マレーシア、フィリピンの3ヶ国である。各国ともに現実性のある選択肢であるが、アカデミーの設立および維持に要するコストを考えれば、第3章で指摘したようにこれら3ヶ国のうちではフィリピンがより現実的であると考えられる。
 英語を本アカデミーの使用言語とする理由は、単に、それがこの地域諸国の唯一の現実的共通言語であるというだけにとどまらない。海上における犯罪や事件の広域化を考えれば、東アジア海域における海上警備従事者といえども、太平洋やインド洋さらにはその先に広がる海洋への事件の展開への対応も視野に入れねばならない。具体例を挙げれば、1999年に起こったアロンドラ・レインボー号ハイジャック事件でも、当該船舶は様々な国の領海を通過、寄港したのち、最終的な解決はインドの沿岸警備隊および海軍の手に委ねられた。常日頃から英語でコミュニケーションを取ることの重要性は、この事件に端的に示されている。
 少なくともASEAN諸国の海上警備機関を見る限り、上級スタッフ間のコミュニケーション言語は英語であり、東アジア海域における安全保障の主要な担い手が、ASEAN諸国であることを考慮すると、当該アカデミーにおける共通言語は英語が自然であり、また必然であろう。共通言語を英語に設定することで、将来的には欧米諸国との密接な交流も可能となる。
 このためアジア・コーストガード・アカデミーの授業科目は、英語をコミュニケーション手段とした上で、カリキュラムが編成されなければならない。当該アカデミーは東アジア海域における海洋安全保障という極めて具体的な目的を設定しており、これらの目的に合致するようにカリキュラムも編成されるわけで、その際には日本や欧米諸国の知見・ノウハウ・情報蓄積を効果的に活用すべきであろう。またカリキュラムを編成する上で、国際水準で単位の交換ができるような工夫も必要となろう。具体的には、世界海事大学(スウェーデン・マルメ市、IMO国際海事機関が運営)との単位の共通化、さらには欧米やアジアを含めた一般大学との単位の共通化も視野に入れておく必要がある。
 先述したように、地価、物価など、本アカデミーを設立・維持するためのコストを考え、さらに、英語圏という条件を鑑みれば、フィリピンを中心に立地を考えるのが現実的である。ただし、同国には、ミンダナオ島のようにテロ組織の存在・活動が指摘される地域もあり、また、政情も必ずしも安定していない。かつてのマルコス政権当時のような騒擾は起こらないとしても、政権のあり方によっては政治的混乱が引き起こされる可能性があるので、立地を考える際には、そうしたことを充分考慮に入れておくことが要求される。
 アカデミーの形態にもう少し言及するなら、呉の海上保安大学校と同じく、全寮制を導入することが必然であろう。本アカデミーの目的は、単に在学生に海上警備の基礎および高度な知識・技能を習得させることだけではなく、国際的な連携の必要性を認識させ、そのための将来のネットワークとなるべき他国の学生と親しく学ぶ機会を与え、さらに、一種の模擬空間ではあるものの国際的な雰囲気をこのアカデミー内で体感させることである。そのためには、全寮制を敷いて、起居をともにさせ、文字通り「同じ釜のメシ」を食べられるようにする必要がある。
 ただし、「同じ釜のメシ」といっても、東アジアにおける様々な民族・宗教的状況を充分に考慮に入れなければならない。その意味で、アカデミー本体もさることながら、寮生活を監督する立場の者には、高度な民族・宗教的知識が要求されるし、さらに、それぞれの学生がもつこうした宗教的・民族的制約と、アカデミー内の規律に則った生活を、どうハーモナイズさせていくかを判断し、実際に学生を指導できる者でなければならない。
 具体的には、宗教だけを見ても、仏教、キリスト教、イスラム教という3大宗教の学生が入ってくることは必然であるし、学生の募集範囲によっては、ヒンズー教、儒教をはじめ、多種多様な宗教の学生が、ひとつ屋根の下で学び、暮らすことになる。それぞれの宗教において、口にしてはならない食べ物があるし、たとえば、イスラム教徒の学生がラマダン(断食月)の際に宗教の定めに則った生活習慣をとろうとすれば、アカデミーの規律に抵触することも考えられる。これはほんの一例であり、それぞれの宗教・民族でさまざまな要求やタブーがあることをあらかじめ知悉して、うまく調和をはかれる、人格・識見ともに優れた指導者が求められる。
 建物等の設備面にはここでは深く立ち入らないが、当然ながら、練習船などが接岸できる設備を備えた海浜に立地する必要がある。寮だけではなく、さまざまな国からの常駐教官、短期集中講義を行なう教官も多くなると思われるので、それに対する宿泊設備も備えたものであることが望ましい。
 
 本研究プロジェクトは、東アジア海域の海洋・島嶼国家にアジア・コーストガード・アカデミーの設立を提言している。地理的位置、費用対効果、英語圏としての利便性など、さまざまな要因を考慮してフィリピンが一つの有力な候補地となっている。仮にアカデミーの本拠をフィリピンに設置した場合、エクステンション(分校)の機能を東アジア海域の複数国に分担させることも可能であろう。あくまで主体的な教育・研修・訓練はフィリピンで実施しつつも、ある目的に特化した教育・研修・訓練を第三国で実施することで、多国間の協力を一層強化することにも繋がる。こうした多国間連携には、当然のことながら広島県呉市にある海上保安大学校も含まれる。
 本提言は、机上の空論で終わるようなペーパーワークではない。日本のイニシアチブで具体的に構想を練り上げ、国際協力機構(JICA)などと連携しながら資金と人材を投入し、構想の実現に向けて指導力を発揮し続けることが肝要である。構想・資金・指導力の三位一体によって本提言は実現可能となる。東アジア海域において日本が海洋安全保障で指導力を発揮し、影響力を行使できる政策分野として注目されてよい。
 指導力を発揮するということは、具体的には人材(マンパワー)を投入するということに他ならない。2004年2月にタイ・パタヤで開催された第4回海賊対策専門家会合において、海上保安庁はタイやフィリピンなどと連携しながら大きな影響力を行使し、海賊対策やテロ対策で多国間の協力を推進すべきであるとの立場を鮮明にして、各国の関心を集めた。また日本において、コーストガードの長官級会合を開催したいとの意向を表明したことにも象徴されているように、海上保安庁は東アジア諸国と連携しながら指導力を発揮できる能力と実績を、すでに蓄積している点も見逃せない。
 本構想は、「コース・ガード」という問題意識と将来展望を内包している。本来、コーストガードは各国の海上警備機関が、領海内を警備することを目的に設立されたものだが、「コース・ガード」は海上輸送ルートなどを「コース」として捉え、コースを警備する必要性を指摘したものである。
 「コース・ガード」実現へのステップとしては、次の三段階が考えられよう。第一段階は、各国のコーストガードを整備し、海軍と独立した海上警備機関を確立することである。第二段階は、各国のコーストガードが二国間や多国間で共同訓練を定期的に行うことだ。第三段階は、アジア・コーストガード・アカデミーを設立して、多国間の教育・研修・訓練を実施することであり、ここで「同じ釜のメシ」を食べた研修生が帰国後、各国のコーストガードで中核的な役割を演じる時代が到来して、初めて「コース・ガード」の時代が到来することになる。「コース・ガード」への第一歩が、アジア・コーストガード・アカデミーの設立である。
 つまり第一段階は「点」、第二段階は「線」、そして第三段階は「面」を形成すると表現してもよい。現状は各国の「点」を明確にする作業プロセス(コーストガードの設立)の段階にある。また日本が大きなイニシアチブを発揮して、「点」と「点」を結んで「線」を引く役割を演じはじめた段階でもある。いま現場で求められているのは、「線」を縦横に引いて太くする作業である。
 しかし本提言は一歩進んで、第三段階における「面」の形成を構想するものだ。アジア・コーストガード・アカデミーは、「面」を形成する場に他ならない。「面」の形成は将来的に、多国間の連携パトロールや共同パトロールを実現する「コース・ガード」の設立となっていく可能性をもつ。船舶の安全航行や「人間の安全保障」を視野に入れる時、東アジア諸国が「海の警察官」を派遣しあい、多国間で海の安全保障を担うことは理想的であり、なおかつ世界における東アジアの一体性を高める上でも意義がある。日本は強力なイニシアチブを発揮し、アジア・コーストガード・アカデミー設立を通じて、海の安全保障という局面で東アジア海洋秩序を構想するべきであろう。その帰結が「コース・ガード」の創設となる。







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