スルメではなくイカを扱え
今の話で思い出すことを言いますと、養老孟司氏の『バカの壁』という本が大ヒットしていますね。最近対談をしました。もうじき本が出ます(編集部注・二〇〇三年九月に単行本『バカの壁をぶち壊せ! 正しい頭の使い方』としてビジネス社から刊行)。
養老さんは東大医学部で解剖学の先生をしていた人ですが、力を込めて何度も話されたのは、「情報情報と言うが、あれは死骸だ。要するに死体解剖みたいなものだ」。養老さんが解剖をやっていると他の医者が来て、「我々は生きたイカを扱っているが、あなたは死んだスルメを扱っている。スルメ学者である」と言う。それを気にしていたのでしょう。「この情報社会を見るとスルメ学者ばかりで、何でもデータにしてしまう」と指摘していました。
そのとおりで、情報あるいはデータというのは死骸である、スルメである。もう生きていない。だから変わらない。今日のデータは明日になっても同じである。だから、バカな学者でも安心していじくり回すことができる。そんなものをたくさん集めて積んだってしようがないと思います。
たとえば今の医者は生の仕事を嫌って、何でもデータにしてから処理しようとする。患者が来ると、「はい、ここへ行って検査しなさい。結果が出るのは一週間後です。もう一回来なさい」と言うが、その間に死んだらどうするんだということですね。だけど、検査結果が出てこないとその人は何もできないとは、情報処理技術者なわけです。
目の前にいる生の人間を見て、「顔色が悪いね、ここが痛い?」と、それが本当の診断です。データは診断の補助だったのに、今はデータのほうがメインになってしまいました。問診と言いますが、患者から「生きた情報」をとる技術がものすごく低下しています。
医者に限ったことではありません。情報にしてからようやく動き出す人が日本中で増えてしまった。情報は固定して変わらないものだと思っている。実際は動いてしまうから、動かないように固定させようとする。「イカを扱わなければいけない」というのは養老さんらしい表現ですが、そのことを何度も言っていました。
ついでに思い出すことを言うと、ある商学部大学院五〇周年記念大会の基調報告をしてくれと言われたので、こんな話をしました。経済学部はスルメを扱っているが、商学部の先生は生きたイカを扱っている。現場から勉強してきて、それを学生に教えている。ところが獲ってきた魚を経済学部に渡すと、干物にしてしまう。それが理論経済学。計量経済学になると骨格標本にして測定する。魚の味は全然ない。面白みも全然ない。
・・・と、頭の体操をしたあとで、イカを扱う話をしましょう。
「かわいい工作機械」でなければ売れない日本
話をレクサスに戻せば、モース教授が「日本は芸術の国だ」と言いました。「ハイテクの国だというけれども、その前に芸術の国だ」と。
つまり、日本人全部がたいへん文化的で芸術に造詣があって、関係者が「もうちょっと雅やか(みやびやか)な自動車にしよう、雅やかな工作機械にしよう」と言えば全員がそれを理解し、共有できる。
本当にそうなのです。私はかねがねそう思っていましたが、アメリカ人から言われたとなるとさらに説得力が増す(笑)。福井の工作機械メーカーの社長に聞いたことがあります。「工作機械といえども、かわいくなくては売れません」。それは工作機械を使う工員に機械をかわいがる気持ちがあるからだそうです。かわいくない工作機械は、工員が「具合が悪い」と言うので結局売れない。それで、スタイルがよくて、かわいくてという工作機械を一生懸命つくっている。「なるほど」と思いました。性能だけではないのですね。正確に言えば性能の良し悪しを含めたトータルを「かわいい」という言葉で表現しているわけです。そういうマーケットが日本にあるから、日本の製品はみんな芸術的でかわいくなる。
「そのことにアメリカ人が気がついたとは、これはマズイ」と思いましたね。モースさんは「私はアメリカ人にショックを与えて、アメリカ経済を立ち直らせたい。アメリカも芸術産業国にならなければいけない。ついては、日下さんがこれまでに書いた論文を英訳して出したい」と言われました、本当はアメリカ人に教えたくはないのですが、長年の友人からの依頼なので断りきれず、いま英訳を進めています(編集部注・その後二〇〇三年九月に刊行)。
日本人は非常に芸術的で、文化的で、上品で、心が優しい。その底力が、これからいろいろな面であらわれてくるでしょう。
その一例ですが、『ポケットモンスター』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』など日本のアニメがアメリカで圧勝しています。ディズニーは非常に悔しがって妨害しました。「日本アニメはお化けが出てきて非科学的である。子供に見せるのはよくない」とキャンペーンを張ったのですが、いくらキャンペーンを張っても子供にはそんなもの聞こえはしません。ディズニーは負けました。
日本人がつくるとどうしてお化け屋敷みたいな話ばかりになるのか。『ポケットモンスター』はモンスターだからお化けですが、始めは五〇匹だったのが今は二五〇匹です。二五〇種類のお化けを考え出す想像力が日本人にはあるのですから、日本人の想像力はものすごく豊かです。ノーベル賞が取れないなどと経産省はいいますが、ノーベル賞の方が間違っている。カチカチのスルメにしか賞をやらない方が間違いなのです(笑)。
日本の底力は凄い
では、どうして日本人はそんなに想像力豊かなのかといえば、子供のときからそういう環境に育っているからです。
昔話やおとぎ話が豊富で、身の回りを見ると神社とか仏閣とか、お化けの出そうな場所がちゃんとたくさん残っている。これは二〇〇〇年の歴史があるからです。アメリカにはお化けの出そうなところは全然ありません。それは人間の歴史が積み重なっていないからです。ヨーロッパに行けばありますけれどね。
もう一つ言えば、新世紀国際アニメフェアをお台場で東京都と一緒になってやったとき、二〇年前から日本のマンガとアニメを、アメリカの映画館やテレビ放送局へ売り込んでいるという人が来ました。今ではどんどん売れるようになった。しかし、昔は本当に苦労したそうです。
どういう点に苦労したかというと、「日本のマンガは主人公が成長する。それはおかしい」と言われたそうです。主人公がだんだん年をとっていくのがアメリカ人にはよくわからない。アメリカのマンガでは、ミッキーマウスといったらいつまでたっても同じ子供です。ミッキーマウスがおじいさんになったら困るのです(笑)。ところが日本のマンガは主人公が年をとって、『課長 島耕作』が『取締役 島耕作』になる。
「こんなもの、アメリカ人にはわかりませんよ。いつもと同じあれを見たいと思って見るのに、成長してくれては困る。ついていけない」と言われて、売り込むのにたいへん苦労した。
これもアメリカと日本の大きな違いですね。日本マンガの特徴とその精神性については改めて集中的に述べますが(編集部注・ 第83回参照)、日本人は主人公が成長していっても驚きません。仏教の影響ではないかと思います。生々流転とか、千変万化とか、無常とか、日本人はそれを日常的教養として知っています。万物が固定して動かないなどと、そんなことはあり得ない、みんな変わっていくのだという仏教の世界を無意識のうちに身につけています。だから主人公も変わっていく。成長しても没落してもそれを不思議に思わない。
以上を締め括っていえば、すなわちお化けをつくる能力が我々にはあって、日本人は世界最高にお化けをつくることができる。そこに渋谷、新宿が生み出すストーリーを乗せて、しかもその背景には仏教のみならず世界の思想がさまざまに影響している。そんな深みのある作品をつくれる国は、いったい世界中にいくつあるでしょうか。ほとんどないのです。
とすれば、これからますます世界に勝てる。日本の底力は凄いのです。
と言う人は、今のところまだ私一人しかいない(笑)。
試しに、日本の底力は凄いという視点で身の回りを見直してみてください。新しい発見がたくさんあるはずです。
先日、台湾と日本の政治家、学者が台湾の独立運動について議論をしました。台湾は中国本土から離れたいが、台湾人をまとめる自分のアイデンティティが見つからなくて困るという話になった。歴史を一〇〇年さかのぼれば、それは「日本統括時代は日本人だった」という話になり、一〇〇〇年さかのぼれば中国本土と同じ漢民族になる。どちらも都合が悪いと思って二〇〇〇年さかのぼれば少数の山岳民族になるが、それにはあまり文明、文化がない―とは言いにくいが―ともかく独立精神の根拠とすべきアイデンティティは何かという話になったとき、私は「何も歴史を古くさかのぼることはない。今、台湾の若者が日本の若者文化を採り入れていることを評価すべきだ。あれがやがて台湾の民族文化と精神になる」と発言しました。
すると東大教授の某氏は、「それは台湾特有、日本特有のものではない。アメリカの若者文化が全アジアに広がっていることの一部にすぎない」と発言しました。
私は相手にしませんでしたが、そのとき私が心中に思ったことは、もう皆様はわかってくれるでしょう。それは、「日本のマンガ、アニメにはアメリカものとは全然違う日本精神が入っている。それを台湾の若者は評価して取り入れて自分なりに消化して、やがて独特の台湾文化をつくる。アイデンティティとはいつもそのようにしてつくられるものだ。日本人が誇りとする平安文化、室町文化、江戸文化の誕生時を考えてみればわかる」。
それから「日本精神をわかる力が自分にない・・・という反省が全然ないところが東大らしいな」ということです。
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