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日本ナショナルトラスト報 2003年5・6月号
Japan National Trust Magazine May・Jun 2003
 
連載 ゆれるアジアの町並み保存・その(2)
宇高 雄志 マレーシア科学大学研究員、広島大学建築学科助手
 
 香港の9月は、普通語月間。普通語(中国標準語)を推奨する、政府キャンペーンが始まった。テレビでも街頭でも、キャンペーンがくりひろげられる。「普通語を学ぼう。よりよき明日。よりよき未来!」。香港は、多言語社会である。九龍の下町の粥屋では広東語が使われる。一方、植民地時代に白人達が築いた、香港島の山の手の、広東アクセントの英語。そして中国語。地球儀では確認できないほどの小さな「国家」。世界は一つ。しかし、香港の巷では、これらの「世界」は決して交わることはない。
 1997年7月1日。香港は永年にわたる英国の植民地支配からとかれた。香港特別行政区(SAR)。これが新しい都市の名前。香港の中華人民共和国への返還は、名より実をとった、政府北京らしいやりかたで、「一国二制度」のもと、変化は劇的には現れていないとされる。むしろ、香港島の高層ビルの頂に掲げられる、サムソン、シーメンス、ナショナル・・・国際企業の電飾巨大広告は、どんどんカラフルに、そして大きくなっている。東西のイデオロギーが「結婚」した香港の都市景観は、アジア経済不況をものともせず、よりそのダイナミズムを増していると言ってよい。
 しかし、敏感な香港市民は、徐々に、人々の暮らしにもその変化の兆しを感じ始めている。「普通語」政策、中国化するデザイン指針、ニュータウンの街路の名前。徐々に中国=北京化する香港。それはもちろん、人々の記憶、歴史への視線の揺らぎとしても現れる。英国の支配によって成立した、資本主義の「国家」香港と、悠久数千年の歴史と共産主義の蓄積。そして躍進し邁進する経済開発下の中華人民共和国。2つの歴史と1つの国家。さて、ヘリテージは、人々の記憶はどう描かれるのか?
 
 今回は「一国二制度」の元でえがきだされる、香港のヘリテージ。町並み保存の現場をレポートする。
 
「中国」と「香港」
 香港は2つの「世界」からできている。高層ビルの林立する香港島。英国の植民都市の開発はここから始まった。香港島の中央部の頂、ビクトリアピークは百万ドルの夜景で有名。植民地時代に限らず、香港島の山麓は豊かな人々の住まいが築かれた。香港大学、インターナショナルスクール、教会、博物館。西欧の、植民地時代の面影を残す町並みが今も残る。また、広東訛の英語が優勢な、ミドルクラスの世界。
 そこからは、水道を挟んで、九龍半島。香港のダウンタウン。九龍半島はそのまま、ニューテリトリーと呼ばれる、山麓へとつながり「国境」をはさんで、中華人民共和国へとつながる。ネイザンロード。極彩色のネオンの、カンバンのつきだした、メインストリート。下町の風情を楽しむには九龍がいい。林立する灰色のビルは恐るべき高密度で、雑居状態。八百屋、鉄工所、安宿、ピザ屋、老人ホーム、住宅が、同じビルに入居している。
 夜の九龍の金魚屋街。小さな無数の金魚がカイコ棚に並ぶ。無数の小さな瓶にいれられて、売られている。電飾に照らされて、小さな瓶の中で、口をパクパクさせている。瓶の中の小さな命。そのカラフルさが、かえつて、いのちのはかなさを感じさせる。高密度と極彩色の世界。それは、雑居、高密度、極彩色の香港の都市景観、そして人々の暮らしを連想させる。すべての建物は空を目指し、限界まで背を伸ばす。無数のエアコンの室外機がうなっている。ビルの一つ一つが、うごめく有機体に見える。過密の限界への挑戦。
 
九龍のにぎやかな通り。
圧倒的な密度。広東語の世界
 
 この2つの「世界」、香港島と九龍半島は、かつて、唯一フェリーがつないでいた。海底トンネルが建設され、開通した地下鉄は、アジア世界の九龍と、香港島の植民地世界をつなぐ役割さえ期待された。香港の都市景観は、すでに都市の中でいくつもの、歴史的レイヤーと、世界観でモザイク状に分割されている。
 
瓶の中の金魚。
香港の高密度な暮らしの風景を
想わせる
 
香港古物保存局の挑戦
 その九龍の目抜き通りに、香港特別行政区・古物保存局が建っている。内務庁の下、香港の文化財保護を司る。50人の職員が建造物保存から美術品までを扱う。N氏は、その一部門を司る若手のホープ。香港の名門大学出身。英語よりも「中国語・普通語」の方が得意なようだ。
 香港での歴史的遺産の保全は、他のアジア都市と比べても、比較的に早い時期から取り組まれていた。1976年には古物モニュメント保存条例が制定され、500物件が3カテゴリーで保存の必要性のある物として認定されている。その後、独立機関の古物保存諮問委員会で審議された結果、75物件がモニュメントに指定されている。多くが埋蔵文化財を対象とするが、教会や墓所、中国寺院なども含まれている。また1997年には都市開発行為による、モニュメントへの影響を評価する条例が環境アセスメントの元で制定されている。比較的に充実していると言ってよい。
 
ウエディングドレス姿の華人の花嫁。
コロニアル建物の前でポーズ
 
 しかし、N氏は「香港では他国で言われるような、面的な町並み保存はおこなわれていない」と自嘲気味に話す。確かにモニュメントとして75物件が指定されているが、保存物件への税制優遇はない。また保存事業への補助はない。また面的指定は、一部の村をのぞき、ない。現時点では殆どのモニュメントが、公有物件で、私有物件はほとんどない。経済活動の自由を謳った香港特別行政区の理念もあって、私有権に触れることは非常にセンシティブなのである。
 また、土地需要が常時逼迫している香港では、文化財保護への政策優先の順位は低い。古物保存局は、積極的に都市開発関連部局と連携を取っているが、都市問題解決の命題の前に、遺産の保存は容易ではない。都市計画法の規定する街路デザイン指針に保存の条項の新設や、TDL(開発権の移転)の可能性を検討しているが、これも難航している。
 香港島にあるセント・ジョンズ教会は東南アジアで最も古いカソリック教会である。教会は高層ビルに取り囲まれているが、豊かな緑と静寂で市民に愛されている。しかし教会の入り口には、「一日あたり、4万香港ドル(約40万円)の維持管理費用が必要」と窮状を訴えている。
 
遺産とポリティクス:中国か?香港か?
 先にも述べたとおり、香港の歴史的遺産は、中国文化を中心にした遺産と、英国をはじめとするコロニアリズムの下、西欧から持ち込まれた遺産で構成される。植民地の経験のある社会は、旧宗主国の文化の賛美は政治的にもためらわれる。また多様な民族で構成される社会では、一つの民族の文化だけを取り上げて保存するわけにもいかない。むろん、現在の香港は、いくら特別行政政府の下「一国二制度」がたもたれているとはいえ、徐々に、中国政府の中国文化政策の影響を受けている。また香港人の中にも、特に保守層を占める非英語系の人々は、中国政府を支持しているらしい。
 では、市民サイドの文化財への視点はどうか。香港では、遺産の保存での「市民参加」はまだまだ見えない。逆に「政府の権威主義と過度のトップダウン」を苛烈に批判する識者も居る。一部の香港ベースの非政府組織は、西側諸国の同種の機関に支えられて当局を批判してきた。各国の対中国政策との絡みもあってか、バックには西側諸国の大物政治家の姿さえ見え隠れする。おおかたの香港市民には、遺産の保存など、存在すら知られていないが、資金は潤沢なようだ。えたいの知れない情報屋も目を光らせている。また、ここでも、異邦人が遺産の保存を目指して、香港人の「啓蒙」をつづけている。彼ら彼女らは、香港でも故国の「正論」を信じて奮闘中だ。しかし、かれらも、現代香港人が、植民支配期のように、彼らにとって「よい子」ばかりではないことに気づいているはずだ。
 
金と遺産と香港人
 ぼくとつとした、古物保護当局のN氏は、こうしたポリティクスの采配をふくめ、非常に微妙なバランスの上に立っていることが分かる。イデオロギー、非政府組織、開発問題、そして「中国」。しかし、N氏はポツリとこう述べる。「香港人はそれほど、ヤワではない。香港人の気質は、非常にマネー・オリエンティッド(金銭中心主義)だ。こうした政治的な揺れさえも、しばしば、能動的に受動的に捉える。しかし、最終的に大事なことは、自分が儲かるか、損をするか」と。
 建物が何であれ、中国であれイギリスであれ、それが儲かるかどうか。役に立つかどうか。ポリティカルな背景よりも、遺産は、国際観光都市として大事な観光資源として捉えられている。いままでも、幸か不幸か、遺産の保護そのものが政治的に先鋭化したり、ネガティブに捉えたりすることはなかった。保存整備は行われてはいないが、幸運にも前向きな破壊は行われなかった。
 そこでの「戦略」は、早朝の香港の各所でみられる、タイチー(太極拳)のように。ゆらゆらと。時には強く。時には弱く。決して力で相手をねじ伏せない。しかし、決して、力には屈せない。
 遺産へのしなやかな、そして、したたかな香港人の姿勢は、香港人の日頃のダイナミックな生き方にも通ずる。ジャッキー・チェンが頂にすまう、香港島ビクトリアピークを目指し、蓄財に励む商人。「万が一」に備えアフリカの国の永住権を「買う」人もいる。裸一貫、巨大中国市場をねらって国境を超える人もいる。子供をむち打って、正しい英語を仕込む広東語の母親。
 「香港ドリーム」。自らの腕と金の力を信じて、選び取る自由。西洋と東洋の狭間。いくつものイデオロギーの洗礼。いくつもの歴史的事件と衝突の経験。不安定の上になりたつ、究極の自由の下で、香港人は徹底的に鍛えられている。
 
香港ストーリーと香港ドリーム
 年間、何百万人もの観光客が、押し寄せる香港に、最近になって、少し趣の異なる試みが始まった。「香港ストーリー」である。九龍のあわただしい雑踏の中にある博物館で開催された。香港の歴史を語るストーリーは、先史時代に始まり、植民地支配の貧困層の暮らし、大戦期の混乱のただ中の横丁の暮らしへとつながる。香港が開発発展をとげる60年代の、貧しいが賑やかな家族の暮らし。市民にとって、身近な暮らしの中に価値と魅力を再発見するものである。また、中国文化といった大きなくくりではなく、広東舞台劇や、福建屋台など、より身近な生活体験としての「民族」が描写されている。ここでは比較的に縁遠かった、市民自身が自らのヘリテージを多様な視点で語り始めている。
 しかし、博物館内に配置された「香港ストーリー」から、一歩、雑踏のネイザンロードに出た瞬間、目眩をともなうほどの過去との断絶を感じる。「香港ストーリー」で語られたヘリテージは、香港人の過去へのセンティメントをかき立てると言うよりも、新たな開発へ向かう号令にもよめる。ヘリテージは、ヘリテージ。過去への過剰なセンティメントは、明日の香港を殺すとさえも。
 語られた「香港ストーリー」は果たして、生きたヘリテージとして、香港人の明日、そして「香港ドリーム」へとつながるのだろうか。また、イデオロギーの衝突と植民地支配を超えて、都市遺産にその眼差しは向かうのだろうか。「一国二制度」の元、香港人が自ら、したたかにソロバンをはじきつつ、歴史を語る試みは、今、始まったばかりだ。(会員)
 
―― 筆者は、現在マレーシアに滞在し研究活動を行っています。本文へのご意見は、下記の電子メールにおねがいします。
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