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■韓国の小さなオーケストラ―杖鼓■
 ベートーベン(Beethoven)はギターを称して「小さなオーケストラ」と言ったというが、韓国でそのような役割を果たしたのが杖鼓である。杖鼓はほかの楽器がなくても、それひとつであらゆる伴奏をやってのけることができ、場に興を添えるのに不足がない。
 今では見られなくなったが、かつては農村で結婚式のような宴が催されれば決まって杖鼓が登場したものである。杖鼓を打ち鳴らしながら歌を歌って踊りを踊るといった余興が、一晩中繰り広げられることもあった。そんなとき、杖鼓に代わる楽器はなかった。それもそのはず、いろいろな楽器を集めたくてもそれだけの余裕がない宴席にあって、杖鼓はそれひとつですべてをこなすことができたからである。
 それゆえ杖鼓は韓国の代表的な節奏楽器のひとつなのである。細腰鼓と呼ばれることもあるが、『楽学軌範』には「羯鼓・杖鼓・腰鼓は漢と魏で使われていた。腰鼓の胴は大きいものは素焼きの土器で、小さいものは木で作る。いずれも頭部が広く、腰は細い。宋の簫史にいういわゆる細腰鼓がこれである。右側はバチで打ち、左側は手で打つ。のちにはこれを杖鼓と言った」(注(6))という記録が、『文獻通考』を引用する形で載っている。
 韓国では高麗時代に宋から輸入され朝廷の唐楽に使われ、その後今日まで俗楽のみならず民俗楽にも広く用いられている。
 杖鼓は、右手に竹製の細いバチを持って右側の面を打ち、左手の掌で左側の面を打つが、両面を同時に打つことを「雙」、バチで右側の面だけ打つことを「鞭」、手で左側の面だけ打つことを「鼓」、そしてバチを面上に弾ませて転がる音を出すことを「搖」という。このように打つ方法が多様であるだけに多様な音を出すことができるのである。
 杖鼓の腰は木に漆布を貼りつけたものが最もよく、陶磁器がそれに次ぐが、素焼きの土器はよくない。腰には黒あるいは朱色の漆を施し、皮の両面には胎土を巻く。左側の面(広い方)には白い馬の皮を施し、右側(せまい方)は荒馬の皮でつくったが、今日では左側の面は牛の皮で、右側の面は馬の皮でつくる。鉤鉄は龍頭の入銀絲でつくるか、あるいは豆錫が用いられた。縮縄には紅眞絲か赤の木綿糸が使われる。縮綬には青斜皮を用い、縮綬を左右に動かして音の高低を調節する。
 杖鼓踊りは、杖鼓を肩から斜めにかけて、いろいろな拍子に合わせて踊る踊りである。もともと湖南農楽の右道クッ(祭祀)のうち農楽の個人技であるクジョンノリに始まる。一九三〇年代、日本で現代舞踊を学んで帰った崔承喜により本格的な舞台芸術に作り上げられ、現在では新たな形態の独立した舞踊ジャンルとして定着している。
 
サンスェ(指揮の役割をする鉦奏者)とソル杖鼓の奏者が互いにやり交わしながら農楽を演じている(全羅北道・筆鋒)
 
慶尚南道・密陽地方に伝わる五面太鼓
5人の鼓手が円心に向かって集まり、五面太鼓を演じている。
 
 形式は独舞あるいは群舞である。冒頭ではたいてい「太平歌」などの民謡にあわせて杖鼓を打ちながら軽快に動き回り、それが終わるとクジョンノリそのままにソルチャングが挿入される。早いリズムで駆り立て、飛び跳ねながら興を最大限に盛り上げておいて、終わりへともっていくのである。
 杖鼓踊りの衣装は、もともとこの踊りが農楽から出発したことから、女性はその時々に多彩なチマチョゴリを着て帯び紐でチマをくくり上げたもので、男性は白いパジチョゴリである。
 
■農学の小鼓の想い出■
 秋、農村の小学校では運動会のころになると、六年生は小鼓を習う。小鼓は農楽で最も一般的かつ普遍的な楽器であるが、この学年でそれを習うということは、つまりは地域共同体という世界に編入されることの象徴でもあった。それは何故か?
 七〇年代の初めですら、韓国の農村における中学校進学率は極めて低かった。小学校が正規の学校教育の最初であり最後であるという子どもたちが多く、彼らは小学校を卒業するや否やすぐに生業の場に動員されることになっていた。彼らにとって生業の場とはほかでもない、田圃や畑である。
 農作業の合間、きつい仕事の慰めとなるのが農楽である。特別音楽に抜きん出たセンスをもった者でなくとも、だれもが耳で聞いてすぐ奏でることのできる楽器が小鼓であり、小鼓ぐらいできなければ共同体にあって一人前の役割を担うこともできない。行列の尻について行こうと思えば小鼓が打てなければならないが、それはつまり、農村共同体の一員となって農業で生きていくということにほかならなかったのである。小鼓は、農楽でひとつのパートを担当するということと、農村共同体に編入されるという二重の意味をもっていたのである。
 
小さな杖鼓を腰につけて、打ち鳴らしながらパンソリを演じる巫女。
慶尚南道統營地方のクッには小さな杖鼓が登場する
 
水を入れた甕に瓢を伏せ、ムル(水)杖鼓を打ちながら踊っている
 
 運動会を終えて家路につく六年生の児童たちは、誰もが手に小鼓を提げていた。より幼い子どもたちは、はやく大きくなってあのお姉ちゃんたちのように小鼓を習いたいとその日を心待ちにするが、そこには、小鼓を打つ者が農楽隊の平凡な一員である如く、農村の平凡な日常の一構成員として編入されるといういくぶんもの悲しい意味が含まれていたのである。小鼓は、中学校に進学することができなかったり、あるいは少なくとも、農村を離れて都会で金を稼ぐだけの才覚のない者、という烙印のようでもあった。農村はそれほど見捨てられた所となりつつあった。
 暮れゆく秋の日差しを受けて歩く子どもたちの、その手に提げられた小鼓を、私はもの悲しい思いとともに記憶している。
・・・〈詩人・東国大学研究教授〉
翻訳=中西恭子
 

注(1) 『三国史記』卷第一四 高句麗本紀第二
注(2) 李恵求 成慶麟 李昌培著『国楽大全集』(新世紀レコード株式会社出版部 一九六八)。
注(3) 韓国ではこれも「鉄で作った太鼓」であることから「鉄鼓」と呼ばれる。
注(4) 梵鐘閣は通常、寺の最も中心にあたる建物である金堂の向かい側に位置する。
注(5) 洪錫謨の『東国歳時記』は一九世紀半ばの書で、月別に歳時風俗を記したものである。
注(6) 一四九三年に刊行された『楽学軌範』は最も古い韓国の音楽理論書である。







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