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V ローシーのオペラ指導
 この人物については詳しいことがわかっていないが、ミラノのスカラ座にも出演したことがあると言われている。歌手だったのか、声楽の教師だったのかは不明であるが、帝劇の西野専務がロンドンで面識を得て、日本でのオペラ育成を依頼した。ローシーはそのときある劇場のバレエ・マスターを勤めていたが、即座にその依頼を受諾した。先述したように、「ロイヤル・シアター」というから、国立劇場だと思ったようだ。明治四五年一〇月夫妻は来日した。ローシーは早速歌劇部員を指導したが、その歌唱能力には絶望したのではなかろうか。たしかに東京音楽学校で声楽の授業はなにがしかの成果を上げていたとはいえ、欧米人なみにオペラを歌える歌手はひとりもいなかった。それでも翌年には「魔笛」を上演したというのだから、驚嘆すべき成果である。ローシーの指導の厳しさはつとに知られている。「続いてローシー氏は『マスコット』『連隊の娘』『天国と地獄』『ボッカチオ』等を演出しているが、顧みれば彼がこの頃、歌劇部員にやらせたものは、本格的なオペラというよりはむしろオペレッタが大部分であったようだ」と『帝劇の五十年』は書いている。「連隊の娘」はおそらくドニゼッティの作品だろうが、これには高音で歌うテノールのアリアがある。とても当時の日本のテノールには不可能だったと思われる。すると上演可能なのはわりあいと軽い声で歌えるオペレッタであった。後年ローシーは田谷力三の声を聞いたとき、日本最高のテノールに出会えたと喜んだが、時はすでに遅かった。帝劇の後「ロイヤル館」を開場して、なんとかオペラを日本に根づかせようとしたが、失敗した。大衆の人気をあつめることも、ブルジョワジーの関心を惹くこともできず、失意のうちに日本を去った。帝劇オペラの挫折は、しかし「浅草オペラ」という副産物を生み出した。それを考えれば、ローシーの努力も、無駄ではなかったことになる。
 
明治四四年、オペラの指揮でイタリアから招聘されたローシー
 
ボッカチオ役、二三歳の田谷力三(金龍館)
[清島利典提供]
 
ローヤル館開場当時の面々。
前列左より 清水金太郎、戸井田シノブ、岡村フミ子、ローシー、原信子、小林節子、井上起久子、無門テル子、清水静子
中列左より 鈴木之夫、久留崎政治郎、小智徹、武田健、服部静雄、深海清高、竹内平吉
後列左より 町田金嶺、黒田達人、桑折辰男、榎本東波
 
オルフェウスの伝説を基にした『天国と地獄』中央が高木徳子
[いずれも清島利典『恋はやさしい野辺の花よ〜田谷力三と浅草オペラ』より]
 
 ローシーと帝劇の契約を報じる都新聞(大正元年八月六日付け)につけたコメントで、矢野誠一氏もこう書いている。「イタリア人ローシーが、日本のショービジネス揺籃期につくした功績は大きい。現在の、ミュージカル・コメディーの源流を、大正年間にローシー指導のもとに上演されたオペラまでさかのぼって求めるむきも少なくない」(『都新聞芸能資料集成―大正編』)。オペラの定着はローシーをもってしても無理であったが、オペレッタの流行は彼の功績だった。残念ながら、帝劇はその拠点にはならなかった。原因は入場料の高さや洋式劇場の居心地のわるさなどもにもあったろうが、それよりオペレッタの世界が宮廷、貴族の館、ブルジョワの別荘、あるいはリゾートの高級ホテルだったりするし、登場人物にも王侯貴族がいるといった特徴に大衆が距離感とリアリティーの欠如を感じとった点にあるようだ。だから大衆は浅草を選んだのだろう。







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