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III 文明国家の未熟なること
 倉田喜弘の「芸能の文明開花」にはそうした外国人に関する記述が散見する。たとえば外国人が発行した日本語新聞『日新真事報』に外国人が書いたと思われる記事が引用されている(著者が一部改変し、現代の文字遣いになおしている)。
 「・・・一新の景況を目撃せんとて近日東京へ来遊する外国人諸所をはいかいするに、両国、浅草など群衆の地には種々の見世物ありて、驚くべき倫理を乱せし野蛮の風習あり。はなはだしきに至りては公然として女の陰物を見世物にし、あるいは身体障害者を衆人に示して玩楽とするものあり。人間をして畜類同様に扱うは日本教化の正しからざる、文明国の人愕然として失望するところ」。
 これは明治五年の記事であるが、日本の見世物は多かれ少なかれこの類だった。歌舞伎などもかなり卑猥な表現もあった。外国人には家族で卑猥なパフォーマンスをみること自体不思議に思われたようである。そもそも芸能とはこのようなものであって、郡司正勝氏がいうように、けっして「芸術にはなるまい」とする性質がどこかにあった。欧米でも身体障害者を登場させる「サイド・ショー」は近年にいたるまであった。パリでも六〇年代にピガールにいかがわしい見世物小屋のあったのを私は見ている。しかしその種のものはいうまでもないが、小屋掛け芝居やミュージック・ホールなどのショーは貴顕の眼にふれなかったのだろう。ところが日本にきてみたら、見世物は大衆芸能の中心であるばかりか、伝統芸能の核を形成していることを知って、それを上演している劇場=小屋に入ることになった。上記の考えを述べたのは、推測するにこのようなものを見たからであろう。本国の見世物の状況については無知だったのではなかろうか。来日した欧米人は見世物は文明の尺度を示すものとして解釈したようである。ところが日本人は、伝統的にか、無意識的にか、見世物をふくむ芸能は表象芸術の王道であり、これなくしては、能、狂言、歌舞伎も日本を代表する芸術にはなりえなかったのを知っている。
 明治政府は外国からの賓客が訪日すると、能、狂言、歌舞伎を見せていた。これなら彼らの視線にさらしても恥ずかしくはなかったからである。もっとも芸者衆の踊りなどにも招待していたらしい。しかし見世物をふくむ芸能を「文明開化の未熟なること」を表徴するものとしてとらえ、これを一掃しようとした。少なくとも外国人の目にふれないようにした。文化はいかなる形態をとれ対等であることを明治政府は理解していなかった。非西欧的なものは「未開化」であるとみなした。しかしサーカスのような欧米の「ポピュラー・エンターテインメント」には寛容であった。日本の芸能より高貴なものと思ったからである。
 
IV 市民権を得るオペレッタ
 西欧では王侯貴族が臨席するオペラにだって大衆芸術の要素は入り込んでいる。少なくともオペレッタはもともとはコンメディア・デッラルテや祭り・市の日に演じられる民衆喜劇に出自をもつパフォーマンスである。しかしパリでは帝政下近代的な劇場の舞台にかかる大がかりな演し物になって、市民権を獲得する。やがて一九世紀オーストリア・ハンガリア帝国の時代ウィーンでは貴顕から大衆にいたるまでの国民的な娯楽となる。ベルリンでもほかの舞台芸術が顔色がなくなるほどのポピュラリティーを手にいれる。プロシア時代のベルリンでは何百万という観客を動員するオペレッタまで出現する。オペレッタには王侯貴族が中心的人物として登場し、プロットを進行させるので、それを上演する劇場は「天覧」にはふさわしい場となったし、大衆と接触する機会ともなった。いきおい劇場が絢爛豪華となるのもそんな社会的・政治的背景があったからである。
 
帝国劇場開場の演目
 
「頼朝」
(市川高麗蔵の頼朝、沢村宗之助の義時)
 
「伊賀越」
(市川高麗蔵の誉田大内記、中村雁治郎の唐木政右衛門)
 
「羽衣」
(尾上梅幸の天人)
[いずれも『帝劇の五十年』より]







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