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スリランカ
はじめに
 スリランカは地中海、湾岸地域、アフリカ東海岸、インド亜大陸西海岸から東へ向かう、そしてベンガル湾、オーストラリア、極東から西へ向かう航路のまさしく交点に位置している。地理的に見て、これは発達した海運産業にとって理想的な位置である。残念なことに、この点におけるスリランカの真の潜在力は未だ十分に活用されているとは言えない。
 2500年を超える、成文の記録にとどめられた歴史と文明、そしてインド亜大陸からの仏教の伝来もあって多様性に富む文化を誇るこの国は海洋国家でもあった。古代のスリランカは「ヤトラ・ドニ」と称される、当時世界最大の航洋船を建造したという輝かしい記録を残している。このヤトラ・ドニの船形は、アウトリガーなしでもバラストを積めば安定して帆走できるだけの幅と復原性を確保していた(Vosmer 1993参照)。ヤトラ・ドニは主として季節風に乗って長距離を航海するのに使用されていた。「ヤトラ・ドニ」という呼称は「巡礼艇」を意味する。したがってこの時代には絶えず貨物と旅客の海上輸送が行われていたと推察される。
 パラクラマバフ大王(12世紀)の治世には、航洋船を使用してビルマの征服が開始されたことも史実から明らかであり、当時、造船活動がピークに達していたことは明らかである。
 残念なことに、西洋の植民地勢力の進出により、スリランカの造船は跡形もなく失われた。その後の450年余にわたって造船技術は、主として沿岸航路や内陸水路向けのカタマランやヴァラムと呼ばれる小型船の建造に利用されるに過ぎなかった。スリランカの理想的な地理的位置にも拘わらず、ここに進出した欧米勢力は、ガルとコロンボの両港以外には、海運業にさしたる寄与を残していない。
 肥沃な土地、豊かな農業、自然災害のない温暖な気候に恵まれたスリランカにとって、経済的利益を追求する手段として発達した海上輸送に、無理に進出する必要性はなかった。したがって、他の多くの島国と異なり、独立開発後も海運や造船に取り組むことはしなかった。当時の政治指導層は、植民地支配者が残したパターンを引き続き踏襲した。
 1972年はスリランカの政治史において転換期を画する年となった。すなわちスリランカは英帝国と一切の関係を断絶し、共和政体の主権国家に生まれ変わったのである。政治指導層は海運と貿易の発展に意を用いるようになり、現状固守の旧弊は払拭された。ナショナル・キャリアーとしてセイロン海運公社が設立された後、コロンボは通商のハブ、海運のハブとして台頭し、国際海運への寄与を拡大した。今日コロンボは総合的な海運・通商ハブに変貌し、世界全般に対して多様なサービスを提供しようと意欲を燃やしている。20年に及ぶ内戦が終息して平和が訪れると共に経済の自由化も進み、スリランカ海運の発展に向けての新たなパラダイムの出現に、新たな状況は正に触媒の作用を果たすことになった。
 
造船業の現況
 スリランカは1969年にセイロン海運公社(CSC)を設立するなど、1960年代末期に海事産業の整備に本格的に乗り出した。1970年には海運に特化した省が設置され、スリランカでは先進的な造船産業の確立に向けて門戸が開かれた。その後、1974年には新造船・修繕船専業のコロンボ・ドックヤード・リミテッド(CDL)が国有企業として設立された。
 このような状況を最大限に活用し、唯一の本格的造船所であるCDLは、その基盤設備を整備拡大して、海運産業の新たなニーズに対応すべく体制を整えた。基盤構造の整備に当ってはデンマーク政府の協力を仰ぎ、一方、後年には同社の自己資本により、125,000DWTの乾ドックが、付帯設備も含めて建設された。スリランカ政府は経済自由化の方針を堅持し、民間主導型の経済発展を促進している。
 1994年はスリランカ造船業にとってまたしても節目となる年となった。スリランカ政府は新造船・修繕船事業の自由化、拡大の一環として、CDLの民営化に踏み切った。これに関連して、日本の中手造船会社である尾道造船株式会社は、CDLと提携するために同社に資本参加、過半数の持分を取得した。再編されたCDLは投資審議会(BOI)認可の企業となり、一切の資機材の免税輸入、その他の租税減免措置など、広範囲にわたる特典や便宜を受けている。CDLはローカルな造船会社から国際的なプレイヤーへと躍進し、事業活動を急速に発展させている。工程の合理化、人員の研修、技術移転、実績に裏付けられた日本の造船手法の導入はCDLの業績とイメージを一変させた。すなわちCDLはスリランカの天与の地理的好条件を十分に生かして、南アジア地域における主導的な修繕船・新造船事業者として登場した。
 CDLの造船事業は業界の長期的活力と持続性を考慮して、ニッチ市場、すなわち3,000DWT以下の小型船艇、さらに具体的には港内用船艇、作業船、最新の技術を駆使したアルミ船体の高速艇などに的を絞っている。政治経済の環境に恵まれれば、さらなる拡大も構想されている。
 CDL以外には、スリランカで造船事業に従事している企業はわずかに過ぎない。以下に若干の例を挙げる。
1. Neil Fernando & Company(Pvt)Ltd.(Neil Marine)
2. Blue Star Marine Ltd.
3. Consolidated Marine & Engineers Ltd.
4. Bertil Onelus
 しかし、これらの企業の殆どは、GRP(ガラス繊維強化プラスチック)艇を建造していて、その仕向先は主として地元の漁業者であるが、一部、観光業界向けや輸出市場向けのものもある。
 Neil Marineは長さ8フィートのプレジャー・ボートから128フィートの漁船、客船、豪華ヨット、巡視・哨戒艇まで、大小さまざまのGRP艇を建造している。同社はまた他の造船所向けのステンレス製金具、その他の金物の専門メーカーでもある。その製品の大半は英国、オランダ、ノルウェー、モルジブ共和国、セイシェル等、ヨーロッパ、その他の市場への輸出向けである。さらにNeil Marineが建造する船艇は湾岸・極東・アフリカ諸国にも輸出されている。
 Neil Marineが輸出市場向けに建造する船艇は全て、英国、オランダ、ノルウェー等の造船技師の設計によるもので、これによりヨーロッパ風の船舶設計とスリランカの職人芸とが見事に融合している。独自の設計による船艇建造の他に、Neil Marineはプラグや成型用工具、あるいは客先から供給される工具を使用して、GRP成形物の製造も手掛け、これらの半製品は客先で組立て、最終製品に完成される。
 
CDLの造船事業
 CDLは造船事業着手の当初から、専ら国内向けに小型のタグ、巡視艇、バージの建造に取り組んだ。70年代末期に、故アスラスムダリ氏のビジョンと指導の下、コロンボ港が「地方港」から経済的活力を具え商業的に利益を上げられる南アジア地域の港に変貌した。コロンボにコンテナが初めて登場したのは1973年12月で、コロンボはまた南アジアで最初にガントリー・クレーンを装備する港となった。コロンボ港の開発計画に対する日本、特に日本の国際協力事業団(JICA)と日本港湾コンサルタント(JPC)の貢献は重要で、また日本からは資金援助も受けた。コロンボ港の能力拡張と発展において一時期を画した出来事は、1985年のジェイ・コンテナ・ターミナルの稼動開始であった。コロンボ港のランキングは139位(1980年)から1988年には26位に上昇し、世界の海運地図における近代的ハブ港としてその地位を確立した。コロンボ港を訪れる船舶は、船型が大型化すると共に隻数も増え、タグの大型化、能力拡大が要求されることになった。尾道造船の技術支援を得てこの需要に対応できる態勢にあったCDLは、スリランカ港湾局からの新たな需要全てにきわめて適切に対応することができた。CDLはこの需要への対応に特化した事業部、すなわち新造船事業部を設置、国内の多数の大卒者、技能者に造船業に携わる、また関連分野ですぐれた能力を発揮する機会を与えた。CDLは最近10年間にボラード牽引能力10トン、20トン、40トン、45トンの新型タグ・シリーズ、その他にも水先案内用ランチ、係船用ランチ、灯台サービス船等の港内用船艇を建造し、引き渡した。1999-2000年の実績としては、55トン級BOエスコート・タグ1隻を含むタグ5隻を建造、スリランカ港湾局に引き渡した。大型コンテナ船を曳航可能な、ボラード牽引能力65トン級タグ2隻の設計・建造も既に受注している。
 70年代末期は、一般的好景気にも拘わらず、スリランカにとっては順調な時期ではなかった。80年代初頭には北部の分離主義者のテロ活動が始まり、わが国では経済発展計画が阻害され、防衛に巨額の出費を強いられた。80年代後半に入ると南部のテロもその醜い頭をもたげ、全国を混乱に陥れた。このような未曾有の危機に見舞われなければ、スリランカは繁栄したに違いない。それでもなお、わが国はこの困難な時代を生き抜いた。CDLはその顕在・潜在能力を発揮して国家の緊急の要請に応えた。その一環として、CDLはアルミ製高速巡視・哨戒艇の設計・建造に着手した。さまざまな要件に対応して、長さ14m、17m、23m、速度35ないし53ノットのアルミ製単胴艇がシリーズで建造された。
 世界最高の観光地の一つとして台頭したモルジブ共和国は、全面的に海上輸送に依存する国である。この市場もまた、CDLの独壇場である。CDLは哨戒、密漁や密輸の取締り、旅客輸送、救助・避難、消防、漁獲物回収等のための船艇、陸揚用舟艇、その他をモルジブ共和国向けに建造している。
 最近の10年間に積み上げた経験と発展を背景に、CDLは今や造船の国際的基準に合致する、多様な船舶を建造することができる。CDLの造船事業の顕著な特色としては、日本造船業にならった品質、納期の厳守、信頼性、確実性と共に、高い価格競争力が挙げられる。CDLは個々のきわめて特殊な顧客のニーズと欲求にも対応する、製品のカスタマイズに重きを置いている。CDLは製品カスタマイズ能力により、標準型の船艇を従来通りに建造している他の造船所との差別化に成功している。
 今日、スリランカは新たな変化の時を迎えた。待望の平和が現実のものになろうとしているのである。平和の到来を目前にして、スリランカはこれまで内戦により中断されていた未完の経済発展計画を推進することができる。全世界からの支援、援助が届き、わが国のビジョンが実現され、スリランカを活気に満ちた南アジアの経済ハブとなる日を心に描けば勇気が沸いてくる。そうすれば当然、当地域も世界全般も、スリランカの天与の地理的位置をフルに活用することができるようになる。
 古代スリランカの魅力、すなわち宝石、茶、スパイス等の原産地としての魅力とは異なり、現代のスリランカは観光地としても重要な地位を占めたいと願っている。安定した気象条件、多様な風景の自然美、高密度の生物的多様性、豊かな歴史的・考古学的遺跡、さまざまな外的影響を受けて豊かさを増しながらなお独自性を保つ固有の文化、そして人懐こく、もてなし好きの国民性により、スリランカは最も好まれる観光地の一つとなっている。エコツーリズムは今日の流れであるが、スリランカはこのような新たな流れ、要請に応じて観光客を引きつけ、インフラを整備する方向で努力をしている。
 予測される好景気と観光の発展は、造船業にとってレジャー用や旅客用の船艇に多角化する、計り知れない機会をもたらすもので、やがては豪華客船やクルーズ船の建造にまで発展することも期待される。
 
造船業の発展
 歴史の示すところ、シンハラ人の最初の移民である祖先はインドの西海岸から来た。この人々はベンガル湾の西端沿いに航海してスリランカに至り、各種の技能や伝統をもたらした。その一つが造船の技術と技能である。
 しかしながら南インドからの度重なる侵入により、スリランカの造船は衰退し、その役割は沿岸漁業向けの漁船建造に限定されてしまった。それでもなお、コッテ王朝の時代に至っても、ヤトラ・ドニが何隻か建造されていた。これは最近、西部のアタナガラ地区の発掘で、この種の船が出土したことで実証されている。
 1913年のコロンボ港湾委員会(CPC)が設置された後、スリランカの造船は一層組織的な形態で再開し、西洋の小艇建造技術により港内用の木造艇が建造されるようになった。
 スリランカの漁業振興のために漁業省が新設されたのに伴って、小規模事業者による国内の小艇建造活動も拡大した。海岸線沿いに立地した、旧来の手法に頼る小艇建造事業者は、設計図等の図面に頼ることなく木造漁船を建造した。
 木材価格の高騰により、GRP艇の建造技術が導入され、従来の木造艇はGRP艇に取って代わられた。このGRP艇は欧米の設計による市販の釣船よりも凌波性、復原性に優れているため、漁民の好評を得ている。
 一方CDLは市販向けの船艇の設計・建造も手掛けるようになった。国内の他の小艇建造事業者と異なり、CDLは鋼製、アルミ製の艇を好んで建造し、また各種の小型艇、作業艇、港内用小艇、客船、陸揚用舟艇等の設計・建造に必要な専門技術、基盤、その他の資源を具えている。高速アルミ艇建造技術は最近修得したものである。
 
政府の現行政策および優遇措置
 スリランカは解放経済政策を採用しているので、造船事業に関連する貿易には何ら制約がない。その反面、造船に対する助成もない。
 外国からの直接投資は奨励されていて、免税措置などの優遇策も各種整備されている。地方の建造事業者は、外国の事業者と比べて、国内市場向けの供給では20%の価格優遇を受ける。しかしBOI認可企業は、地方企業向けの、この20%の価格優遇を受ける資格がない。BOI企業の国内販売は10%の関税(特定の船種対象)、20%の付加価値税、その他の法定賦課金の対象となる。輸出船建造のために輸入された原料、機器に対しては関税が還付される。
 以上の他には、造船業を対象とした特別の優遇措置や助成措置は設けられていない。







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