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鰊漁の衰退
 明治30年まで順調に漁獲高を伸ばしてきた鰊漁にも、停滞衰退の兆しが見え始めてきた。明治36年に103,938石をピークに漁獲高が減少し始め、明治41年には403,994石、翌42年も444,210石と半分以下に減少した。しかし、翌43年からは盛り返し、大正の初年までは豊漁となった。ただ、今まで、鰊漁の主体となっていた後志地方と共に北部の増毛・留萌・苫前地方が重要な生産地となってきた。大正8年以降徐々に全道鰊漁獲高に占める割合が高くなり、昭和に入ってからは約40%の比率を占めるようになる。これは鰊資源量の減少が顕著になり始めたからである。明治39年に奥尻島への来游が途絶、大正6年には久遠、熊石に来游途絶、大正9年には瀬棚に来游途絶、大正11年島牧に来游途絶、大正13年には松前に来游途絶、昭和4年には後志以南が来游途絶、昭和7年積丹以南漁皆無になり、歌棄、磯谷に来游が途絶した。大正9年の974,779石を最後に漁獲量は年々減少の一途を辿った。
 更に鰊漁業に打撃を与えたのは、世界恐慌の影響を受けた不況にあった。昭和初年1石あたり2,112円だった魚価が昭和6年には1,414円まで下落した。これは鰊漁業者にとって大きな損害を与え、特に不漁の激しかった後志以南の地方は大打撃を受けた。
 
モッコ背負の様子
 
 
枠船・起こし船の準備
 
 留萌地方にあっても、昭和6年漁業者戸数2,993戸の負債総額2,408円76銭6厘円。償還期限を過ぎた負債額1,427円70銭7厘円、回収困難な額748円73銭1厘円となっている。1戸あたりの負債額は850円になる。全道平均は698円で、全道1戸あたりの年漁獲額が851円であったから、年間収入に比し如何に膨大な負債であったかがわかる。このため北海道議会においても「農漁村負債整理に関する意見書」内務、大蔵、農林各大臣及び北海道庁長官に提出した。
 
大正初期の瀬越浜
 
 引き続く不漁の中で鰊定置漁業者の合同が考えられるようになった。昭和3年に日魯漁業会長堤清六の提唱により北海道鰊漁業合同調査会が創立された。鰊漁法は定置網と刺網の両者が両輪で回っていたが、不漁の中で経営の特に悪化したのは定置網業者のほうであった。大正12年に2,301統あった漁場の数が昭和12年には1,360統にまで減少した。刺網業者は大正12年7,592人、昭和12年には6,166人となっており、減少はしているが定置網業者ほどではない。また、1統当りの生産額も7,000円から2,640円に減少。刺網は1人当り372円から190円に減少している。大正12年の所得に比べると定置網業者は37.7%、刺網業者51.1%の収入にしかすぎなかった。このように定置網業者のほうが打撃が大きかったことがわかる。
 昭和3年の北海道鰊漁業合同調査会の設立と昭和5年以降後志以南の鰊漁が皆無であったことがきっかけとなって、翌昭和6年12月18日岩内から北見枝幸の鰊定置業者の52%、813統が現物出資して合同漁業株式会社を設立した。これは鰊漁業者が合同することにより、経営の合理化を促進し、鰊漁業の経営のリスクの分散化を計り、鰊漁の継続的経営を目指すものであった。留萌支庁管内に置いても514統の内244統の参加をみた。実に42%にあたる。ただ、52%にあたる270統の業者は不参加であった。これは自己資本による経営の安定した定置網業者が半数以上いたことを物語っている。昭和9年には日産系の日本食料工業株式会社に買収され、経営を刷新し、独占資本の支配が確立する。しかし、打ち続く鰊不漁のため、直接的な漁業の経営には積極的に参加することなく、所有漁業権の賃貸という安易な経営に甘んじたために、設立当時の合同漁業の趣旨に反し、鰊漁業経営の安定性と将来への鰊漁業の継続を計るどころか、沿岸鰊漁業者の衰退を一層促進した。昭和7年から9年の3年間に抛棄した漁業権は460統に上り、採算性のない漁場は積極的に抛棄されたと見ることができるであろう。また、昭和8、9年には約10%に及ぶ漁業権を賃貸していたのが、昭和17年以降はその数を急激に増し、昭和20、21年には賃貸漁業権は総所有権利数の42%に及んだ。そして敗戦により、この合同漁業株式会社も昭和21年集中排除法の適用を受けて解散した。
 
陸上げされたニシン漁船
 
鰊漁の終焉
 太平洋戦争の敗北により、従来の日本漁業の改革が占領軍により開始された。昭和21年漁業民主化のための制度改革の指針が発表され占領政策の一貫として漁業改革も進められていった。しかし、政府、民間による新漁業制度案はなかなか占領軍の受け入れるところとならず、幾度となく折衝が重ねられ、昭和24年11月29日第6回国会において新漁業法及び漁業法施行令が成立した。この新漁業法は従来の仕込等による従属的な漁民の開放と民主化、漁民の自営を促すことを目的としていた。これは鰊漁業にも適用されたのである。従来の封建的世襲的な漁業権のあり方を一度白紙に戻し、旧漁業権は一度消滅させ、海区ごとに漁場計画を作成し、新漁業権を申請者に認める。但し、経営者としての資格のある者でなければ申請を認めない。賃貸等は一切認めないというものであった。この漁場計画、免許、申請者の適否については当該海区の漁民の直接選挙で選ばれた海区調整委員会に任せられた。そして、旧漁業権に関してはすべて国の補償による漁業証券の発行によった。新漁業制度による鰊定置網の統数は留萌管内においては、413統から356統になった。留萌海区では54統の鰊定置が免許されている。
 しかし、昭和24年から一時鰊漁獲高がもちなおしたが、昭和30年留萌317石、全道36,314石を最後に北海道沿岸の鰊漁は終焉を迎えたのである。昭和31、32年も若干の漁獲をみたところも留萌にはあった。
 
うち捨てられた枠船







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