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第2章 「分村」港川
 港川は、首里王府時代につくられた集落であり、広い範囲にある糸満の「分村」の中で、もっとも古く、大規模な集落です。港川の住民は糸満言葉を話し、多くの人が糸満の門中に所属しています。年中行事も糸満同様に旧暦で行ないます。例えば、正月は旧暦で祝い、周りが新暦で正月を祝っているときに、港川はいつもと変わらず、正月の雰囲気は全くありません。
 人々が所属している門中でみると、港川に最初に定着したと伝承されている東長嶺系統が属する幸地腹門中のメンバーが最も多く、次いでフセー門中、大屋腹門中のメンバーが大勢います。
 1903(明治36)年、「縣令第三十六號」(10月21日)によって、行政区としての港川村が成立しました。明治期の港川村の世帯数・人口は、1903(明治36)年に士族40戸、236人、平民89戸、512人、合計129戸、748人(「区間切島本籍人員族称別及棄児」1903『沖縄県史第20巻』)。2002年8月末日現在、世帯数311戸、人口908人。
 
(写真提供:坂井和夫氏)
 
1. 糸満・糸満系漁民の主な「分村」
 
 県外・海外に展開していった糸満漁民の中には、出漁先で定着する者がいました。定着する人数が比較的多い場合には、糸満の本村に対して分村と呼ばれうるものです。上田不二夫は、明らかに分村と判別できる糸満漁民の村を奄美から台湾までの間に16村を数えています。これらの分村のほとんどが明治中頃以降の大型追込み網漁が盛んになった時期より後にできた集落です。
 しかし、南西諸島以外にも、八丈島や房総半島の先端、沖縄本島内では読谷村都屋や名護市港区、八重山では小浜島の細崎、さらに海外では韓国済州島などにも定着した人たちがいました。これらの全てを含めると、糸満漁民が定着した地域はかなり広い範囲に渡ります。
 
糸満・糸満漁民の主な「分村」
上田不二夫1991
『沖縄の海人』沖縄タイムス社
 
2. 港川の起源
 
 港川への最初の移住は、1800年代の前半から半ば頃(首里王府時代)にかけてとする説が多くあります。追込み網漁の発展によって糸満漁民が広い地域に乗り出していったのが、明治中頃以降のことなので、首里王府時代にすでに港川に移住していたことは、他の多くの分村と違うところです。近世(首里王府時代)では、一般的に農民に移住の自由はありませんでした。なぜこのような早い時期に漁民たちは移住できたのかという問題は、その頃の糸満や漁業がどのように扱われていたのかという問題と結びついていて、大変興味深い問題を提起しています。この問題は、今後の課題です。
 
港川の起源をめぐる諸説
港川に初めて移住した推定年代 資料 記述
1700年頃 Clarence J.Glacken 1973[1955] The Great Loochoo: A Study of Okinawan Village Life Green wood Press, Publishers Westport, Connecticut 「250年前に創設されたと信じられている」。
1828(尚25)年頃 「幸地腹門中長嶺大屋東長嶺系家系図」
(1987年)
「西暦1828年頃港川(現西長嶺屋敷)に定住」
1828(尚25)年頃 『具志頭村史』第1巻
(1961年)
「現在の屋号西長嶺の屋敷を永住の地として、文政十一年頃(1828)に転居した」 (P.403)。
1848年(尚泰1) 「糸満概況」
(1918年)
「島尻郡具志頭村字港川の如きは百七十六戸を有する一字なるも此地は七十年前以後より漁業の関係上本町より次第に移住して、遂に今日一字を形成し・・・」
1842〜52
(尚育8〜尚泰5)年頃
大村八十八 1912
「沖縄県水産一斑」
「今を距る六七十年前以来糸満町より移住し来り」
1874(明治7)年 仲松弥秀 1944
「糸満町及び糸満漁夫の地理的研究」
『地理学評論』第二○巻第二号
「糸満町からの移住者に依って出来た子村が各地に存在している。其の一は具志頭村の港川と言われる部落である。此の部落は今を去る70年前より糸満漁夫の移住によって出来たものであって、現在約170戸を有している。最近俗称粟石と称せられている粒状砂岸の産地となってから大部落が接続して形成され、小都市的形態を備うる様になっている」。
 
3. 草分けの家
 
 いつ頃糸満漁民たちが港川に移り住んだのかについては、いくつかの説がありますが、最初に定住したのが現在の東長嶺の祖先であったという点は多くの人が認めています。このことは、東長嶺(長男筋)と西長嶺(二男筋)が村の年中行事の重要な拝所となっていることからも確認できます。
 ハーレーなどの村の行事では、最初に定着した人の三人息子のそれぞれの系統の家である東長嶺(長男筋)、西長嶺(二男筋)、上長嶺小(三男筋)からそれぞれ3つのビンシー(米、酒、線香を入れた祭祀道具箱)が出されて村の拝みを行なっていました。しかし、それぞれの戸主の高齢化のために、1980(昭和55)年頃に村のビンシーを設えて、村行事は区長を中心に行なうようになりました。
 
正月に村の有志たちは東長嶺家に集まって祝う。
(写真提供:坂井和夫氏)







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