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第2部 糸満漁民の展開と港川
 
 
第1章 糸満漁民の歴史的展開
1. 首里王府時代の漁業と糸満
 
(1)近世の糸満人
 王府正史の一つである『球陽』に、海で活躍した糸満人についての記事が4件あります。一つは1775(尚穆24)年の記事で、渡名喜島の嘉真又吉という人物が糸満で「(チョウザメ)を釣る」方法を習い、渡名喜島の人々に教えたと記しています。1787(尚穆36)年、1791(尚穆40)年、1792(尚穆41)年の3件の記事は、難波船の乗組員を救助した糸満人を王府が褒章(ほうしょう)したという内容です。救助した場所は、慶良間沖(尚穆36、40年)と読谷山沖(尚穆41年)です。これらの記事の中に「魚を捕らへて業と為す」、「洋在りて捕魚する有り」という表現がみられることから、糸満人が漁業を行なっていたこと、そして出漁先は慶良間沖や読谷山沖にまで達していたことがわかります。
 
「糸満漁夫の夫婦」(県立博物館蔵)
 
(2)首里王府の勧農政策と漁業
 首里王府時代の琉球の産業は農業が中心でした。例えば、近世最大の政治家の一人である具志頭親方蔡温(1682-1761)は、数々の農業・林業政策を行なったことで知られています。蔡温が記した史料から、首里王府は農業を勧める勧農政策を行なっていたことがわかります。つまり、首里王府は漁業については積極的ではありませんでした。
 その中にあって、糸満では例外的に漁業が行なわれていました。首里王府時代の糸満は、フカ釣・イカ釣漁業(沖合漁業)を中心として、その他には採貝・採藻を目的とした沿岸の潜水漁業を行っていました。当時としては極めて珍しい専業漁業者が存在していたわけです。
(1)漁労抑止策
 具志頭間切の農民に布達した『平時家内物語』では、「海辺の百姓は海に出て家業の農業をおろそかにしてはいけない」と書いており、農業を仕事、漁労を遊びとみなして農民をたしなめていました。
 
蔡温1749『平時家内物語』。蔡温が具志頭間切の農民に布達したもので、農民の日常生活の心構えなどを説いている。
 
(2)漁船の製造制限政策
 蔡温は「山奉行所規模帳」(林政八書の一つ)で、くり船づくりを禁止し、すでに持ち合わせているくり船には焼印を押すように指示しています。その理由は、唐船の材料となる木が少なくなったのが、くり船製造が原因だというのです。これに違反した者は流刑とし、これに加勢した者は罰金100貫文を科し、50貫文は告発書に渡し、50貫文は山仕立料とすると規定されました。
 
「林政八書」(1737〜1869)。蔡温による「杣山(そまやま)」(材木を保護するために王府によって囲い込まれた山)の取り扱いに関する法令・技術書。
(沖縄県公文書館所蔵)







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