日本財団 図書館


POSと効果的な患者教育
 さて,これまでの私の話から,医師のみがプロブレム・リストを作り,それを診療する患者に示して説明することから診察がスタートするのは必ずしも理想的な医療とはいえないということがおわかりでしょう。
 まず,患者が病気の知識と気づきをもたなければなりません。患者は自分の感覚器をバロメーターとして,自分の自覚症状を適切に判断し,この症状であれば受診するというタイミングのよい受診行動をとってもらうことが大切です。この意味では,患者もPOSに参与しなければなりません。そして,ケアに当たるものは患者からの情報を活用するのですが,その際には,患者が自分の問題を適切に表現できるように教育するのもまた医療者の大切な役割でもあるのです。
 
表4 患者の作った病歴と問題(65歳の男子)
1. 主要病歴
(1)1965年頃より自律神経失調,心臓神経症,胃炎,不眠など,この間薬物性肝炎
(2)1974年10月 下行結腸癌手術
1980年12月 胃切除・・・術後肝炎
1982年2月 直腸手術人工肛門・・・術後肝炎
2. 現状
(1)気力の衰えに大変悩んでいる
(2)日常生活 飲酒晩酌2合余,禁煙
体重
胃切除前(55年12月)65〜68kg
直腸手術前(57年2月)60〜61kg→現在65〜66kg
3. 問題(主訴)
#1: 癌を中心の全体的検診 体調について
#2: 1984年春頃より気力が衰え積極性がなく,すべてのことに興味が薄れ,集中力,記憶力が著しく衰退。1985年12月からライフ・プランニング・センターS先生に通院中。うつ病との診断で与薬を受けているが,あまり効果がない。
#3: 眠りが浅く,朝の目覚めがたいへん悪い。ハルシオンを週2回位服用
 
 私が長年指導している88歳の大動脈弁閉鎖不全症の女性は,受診の際,現時点の自分の状態を書いたメモを持って受診します。その方がご自分の知り合いを私に紹介する際には「日野原先生に受診する場合は前もってご自分のプロブレム・リストを書いて持っていくように」と勧め,プロブレム・リストの書き方を指導しています。そのような知的な患者を紹介されて診察することは私にとっては大きな喜びでもあります。患者自身が書いたプロブレム・リストを見せられると,こちらも勉強させられることが少なくないからです。
 日本では国民の97%は高校へ進学するというほど日本人は高学歴なのですから,患者の側が受診の要領を学んで知的な患者になろうと努力すれば,その成果はすぐに上がるはずです。健康教育というと,やたらに病気について教えることのように考えるのは間違いで,たとえばC型肝炎の人は信用のおける医学書を読めば病気の詳しい知識はよくわかります。その病気の知識を得ることよりも,自分や家族が病気になったときに,どのような医師にかかり,どのように症状を言語化するかといったノウハウを学び,いかに正しい問題解決に導くかということのほうが,本当に役に立つ健康教育といえましょう。病歴を提示して,自覚症,すなわち主観的なこと(Subjective)を上手に言語化するように患者や家族を教育することこそが本当の健康教育なのです(表4)
 患者が具体的に病状を説明しないと,医師はそれを正しく把握することができません。ですから痛みの部位や,どのような間隔でそれが起こるかなどを,患者は明快な言葉で医師に説明しなければならないのです。その感覚は痛みというよりも,むしろ圧迫するような性質のものなのかもしれません。「なんとなくいやな感じの痛み」「なんともいえない不快感」などと患者が説明すると,医師にはその訴えの把握がますます困難になってきて,正しい診断からだんだんと遠ざかる危険もありうるからです。患者が感じることをPOSではS(Subject)としてチャートに記入しますが,そのSの内容が架空のものであると,問題解決が困難になります。
 しかし,患者の自覚症は,それが正しく表現されれば,問題解決には非常に参考になります。また,局所の発赤や腫脹や皮疹が見えなくても,患者による痛みの巧みな表現がなされれば,痛風発作前の状態にあることや,帯状ヘルペスの早期発見などもできるのです。心筋梗塞発作の始まりを自覚症として正しく表現することも当人のいのちにかかわることですからきわめて大切です。
 心筋梗塞発作のうち約3分の1は無痛のものといわれます。とくに高齢の患者や糖尿病患者には無痛のケースが多いのですが,本当に患者がその違和感を的確に表現することができれば,医師にはそれが心筋梗塞発作の発症症状であるかどうかが即座に診断できるのです。痛みがない場合でも冷や汗が出ていることを患者が訴えれば,私はそれだけで心筋梗塞を強く疑い,その時点で早期診断のためにはどのようなテストが適正かを決めることができます。
 患者が病気になると,まず自覚症が先発します。しかし,その時点ではいろいろのテストにも反応しないことが多いのです。つまり,検査や血液反応には何も異常値が出てこなくても,脳には敏感なセンサーがあり,そのリセプターによって当人は病気の発生を早く予感することができます。それを早く主治医に伝えれば,病気はきわめて初期のうちに発見できるかもしれません。そのようにして信頼性のある証拠が患者からいち早く示されると,その証拠から医師は病気に正しい診断をつけることができるのです。
 私は患者に血圧の自己測定を20年ほど前から勧めてきました。医師に血圧を測定されると,患者は無意識のうちに緊張するので,血圧は時には30mmHgも50mmHgも高くなることがあります。ですから,本当の血圧は家庭内で測定し,それを表にして医師のところへ持っていくと,そのデータはPOSのO(Object)となり,患者のSとOとから正確なA(Assessment)がつけられるのです。患者さんを教育して,SやO,そしてその評価(Assessment)が患者自身によって行われれば,それはレベルの高いPOSによる診察であって,のアウトカムは信頼されるものとなります。これからは,患者がPOSの病歴を書けるように指導していかなければなりません。このようなことは日本であってこそ可能なのです。
 次は,75歳の患者さんの例です(表5)。
 
表5 主要病歴ならびに現状と主訴(患者の自記)
1996.4.検査入院に際して 手○貞○(75歳7カ月)
主要病歴
(1)1965年頃より自律神経失調症 心臓神経症,胃炎,不眠,薬物性肝炎
(2)1974年10月 下行結腸癌手術
1980年12月 胃切除,早期胃癌・・・術後肝炎
1982年2月 直腸手術,人工肛門・・・排尿に腹圧必要
(3)1993年4月,8月,1994年10月,1995年4月,10月
検査入院の都度 結腸ポリープ発見,切除
(4)1985年頃より 胆石,小豆大数個あり,サイレント・ストーンなので未処置
 
 彼は過去3回,がんのために開腹手術を受けているだけに,自分の健康度の評価は鋭く,1965年以来1年に2回の入院の記録,しかも入院時には自分で書いた病歴や問題リストを見事に作って持ってきます。この方はたびたびの入院時には必ず自分で書いた病歴とプロブレム・リストを用意して来られるので,病院にある過去の診療記録を取り寄せなくても,患者の問題が歴然と示されているわけですから,このような患者は医師に大いに歓迎されます。この方が自分の健康状態を自己チェックしてそのデータを医師に示すということは,効率的な診療を期待しているからです。
 このように考えますと,私たちがクライアントを少しトレーニングしさえすれば,必ず自分の病歴は書けるようになるのですが,当人の書きたくない点は依然解決されません。医療的なことは医師任せにしているという人が多いのですが,Subjectiveの記録を主治医に示すことによって,その人自身の健康意識のレベルが向上することも期待できるというわけです。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION