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アフリカでワニを食った話
 
松元彦四郎
 
 私がJTCAで働かせてもらったのは1980年9月から3年間である。当時の事務所は、虎ノ門第15森ビルにあった。今は亡き兵藤さんと、夜な夜なまだ若かった福谷氏を引きずりこんで一杯やったものである。そのため、福谷氏には、大事な婚期を逸してしまったと嘆かれた。ともあれ、吉田さんと島根さん(いずれも旧姓)と言う有能な女性スタッフに恵まれ、楽しい職場であった。研修事業と海外調査事業を担当し、研修事業では、講師の依頼など、張り切り娘の島根さんがてきぱきと仕切っていた。研修の終わりに先輩たちが働いている東南アジアの各地に研修旅行にでかけた。研修委員長だった日本工営の坂東さんや小田さんと一緒に研修生を引率して炎天下の飛行場や港湾施設を汗を流しながら歩き回ったのが昨日のように思い出される。
 JTCAで最初に出かけた情報収集が約1ヶ月間にわたり南アのゲリラが出没するモザンビークなど南部アフリカ諸国を渡り歩く大変なもので強烈な印象がいまだに脳裏に焼き付いている。このときの話を当時の運輸省広報誌「トランスポート」の1981年10月号に寄稿した記事から抜粋して紹介することとしたい。
 
・アフリカにもいろいろある
 ことし2月から3月にかけて南部アフリカに約1ヶ月間旅行し、タンザニア、ザンビア、モザンビーク及びジンバブエを訪問した。初めてのアフリカヘの旅で、旅行前に黄熱病の予防注射をし、帰国後肝炎で入院したとか、マラリアで死んだとか聞くにつけ、悲壮な気分になって旅立ったものである。アフリカは広く国もいっぱいあり(独立国51)、政治体制もまちまちで、政情不安定で内線が絶えない国もある。部族も多様で、言葉もちがう。未開の原野もあれば、高層ビルの立ち並ぶ大都会もある。気候も炎暑を想像するが、立体的に考えると、海抜1,500メートルのジンバブエのソールスベリーなどは、夏でも涼しい。
 
・内陸国の資源と沿岸国の港
 昨年11月、南部アフリカ9ヶ国の代表閣僚からなる運輸通信委員会は、モザンビークの首都マプートに世界の援助国と国際機関を招いて「第二回アフリカ開発調整会議」を開催した。これらブラックアフリカ9ヶ国は、6ヶ国が内陸国で、3ヶ国が沿岸国である。内陸国は、銅などの鉱物資源があるが、これを海外に輸出するのに近い沿岸国の港と鉄道が未開発であるため、遠回りでも人種差別の南アの鉄道と港に依存せざるを得ない。この状況を改善して南アヘの依存度を減らそうというのがこの会議の狙いであった。この会議に提出されたプロジェクトは、道路関係26、鉄道関係25、港湾関係8、空港関係12、通信関係26、合計97件に及び、所要投資額は19億ドルを上回るものである。今回の調査団は、この会議に焦点を置き、特に案件の多い5ヶ国を調査対象国に選んで訪問することにした。
 ロンドンからタンザニアのダルエスサラームに向かう。途中寄航したキリマンジャロ空港を離陸後しばらくして左側に雄大なキリマンジャロの主峰が霧の中に迫ってきた時の感動は忘れられない。ダルエスサラームは、「平和の港」というアラビア語の名のとおり入り江の奥にある港町で、緑の街路樹とヨーロッパ風の町並みに昔日の面影を残していた。タンザニアは、輸入石油の値上がり、20年来の干ばつの打撃でインフレが激しく、盗賊が横行し、夜の独り歩きは危険である。一方、ザンビアは、鉱物資源のおかげで経済的に恵まれており、道路等都市の整備状況も良好である。
 
・FINISH!
 今度の旅行で最も気を使ったのが独立後、わが国の調査団として入国するのが初めてのモザンビークであった。ソ連寄りで日本の援助は困難とか、食糧難で毎日多くの人が餓死しているとか、海に向かって写真を撮っただけで捕まったとかいった話を聞かされて心配していたが、政府の人も親切に対応してくれて、ほっとした。しかし、物資の不足は深刻で、ホテルも蛍光灯が切れて代わりに吊るした裸電球もまばらで暗く、湯も出ない。暑いのでビールでもと行った食堂は席がいっぱいで、カウンターでビールを注文したら、インド系のバーテンが「FINISH!」と言う。ロビーで席の空くのを待って席に着いてから食事を注文したら、「一品しか残っていない。」と言う。止むを得ず、「それとビールだ。」と言うと、今度は不思議にビールが出てきた。次の日は、「Tea or Coffee?」と聞くので「Tea.」と言うと、「FINISH!」ときた。それなら最初から聞くなと言うのだ。考えると、モザンビークはFINISHだらけの国だったのである。
 
・クロコダイルステーキの味
 マプートから約2時間飛んでジンバブエの首都ソールスベリーに着いた。ジンバブエは、今度訪問した国の中では最も近代的で豊かな感じを受けた。まるでアメリカの南部の都市を思わせる。ジンバブエの観光の目玉は、全長2キロに及ぶビクトリア爆布、ワンキー国立公園及びダムで出来た世界最大の人口湖のカリバ湖などがある。ビクトリアフォールズのホテルでワニを食った。夕食のメニューを見ると、魚料理の欄にクロコダイルステーキとある。一瞬目を疑ったが間違いない。出てきたのはワラジのようなステーキで、尻尾を輪切りにしたらしく、中心に骨があり、背の部分はさっぱりして鶏肉の感じであるが、腹の方は脂身が多く珍味とは言い難かった。帰国してこの話を女性にしたら、「まあ、気持ち悪い、だけど皮はどうしたのかしら。」と宣うた。翌日、鰐の養殖場を見物し、些か動物愛護の念から罪の意識を感じたが、「尻尾はトカゲと一緒でまた生えてくる。」とのある団員の説に些か疑念を持ったが、一応納得した。
(元当協会事業部長・現(株)ジャルトラベル顧問)
 
 
町田冨士夫
 
 日本交通技術株式会社の社長に昭和63年就任し、翌平成元年から協会の理事として理事会に列席することになった。平成13年岩橋会長に譲る迄の間10年以上の長い間理事の席を汚したことになる。この間、港湾、空港、観光、運輸の諸先輩お歴々に伍し鉄道屋として参加させて頂いた。
 まず思い出す事に協会の名前の変更である。当社は英文名Japan Transportation Consultant Inc. 協会名JTCAと似通っていたし、実際現地で手間取ったりしたので関心は強かった。海外運輸協力協会と改称し、公的感覚が出されたと思う。
 毎回の理事会では、運輸省の国際協力担当課長等ご担当の方々から世界情勢の解説を頂き私共にとっては極めて有意義であった。
 ベトナムとの国交は戦争が終わっても暫く許可が出ず、その間ハノイで復興シンポジウムが開かれた('88年10月)。漸く正式に再開されるや早速自由主義各国との所謂援助合戦が始まった。そして間もなくソ連邦の解体に伴い、中央アジアヘの経済援助が始まる。鉄道が中央モスクワに直結はしているが、他国を経由しないと国内網が形成されないわけで、独立国としてその完成が急務とされた。
 協会も毎年10月に開催される国際援助週間ではこれらの国に対する援助の為のシンポジウムを何度も開催した。日本も経済余力のある良き時代でもあった。
 竹内会長の土木学、サステナブル発展、そして長く続いているベトナム研究会はわが国の成功と反省も含めアジア諸国に処すと言う極めて有意義な哲学の教えであった。
 その頃、思った事に、協会として、協会の会員会社が総方を挙げられるプロジェクトとして、風光明媚なベトナムの地に長期滞在型リゾートホテルを建設すると言った構想である。四百年前の日本人町等も含め世界遺産登録の古都フエ、ハイフォンを訪ねる、その為にはハイバーン(海雲峠)に近いダナンを国際空港化する。南北縦貫鉄道の整備、沿岸の港にマリーナの新設等できれば長期滞在型が実現するであろう。外貨の獲得にも好都合ではないか等一時は真剣に考えたものである。
(元当協会理事・現日本交通技術(株)顧問)
 
 
吉松昭夫
 
 海外運輸協力協会(当初:海外運輸コンサルタンツ協会)は、昭和48年4月1日設立以来、海外の運輸交通プロジェクトに対するわが国コンサルティング活動の振興と発展に多大の実績を上げられ、この度設立30周年を迎えられたことは誠に喜ばしく心より祝意を表するものであります。
 私は設立当時、研修委員の一人として、協会の事業計画策定に参画させて頂き、また、その後も委員会や理事会に日本工営を代表して参加させて頂いたので協会発展の歴史を目の当たりにしてまいりました。
 このようなご縁で協会の30年を振り返り、特に設立の頃の思い出を中心に若干感想を述べてみたいと思います。
 設立当初、協会の大きな活動として運営委員会と研修委員会の2つがありました。
 運営委員会は協会の運営全般に関しての企画調査を行う委員会であり、研修委員会は海外要員の緊急な育成を行うための企画立案を行う委員会であります。当時、大多数の会員企業の声として、日本には優秀な技術力がある。しかし、それだけで海外のコンサルティング活動が満足に出来るわけではない。海外業務には技術力プラス、サムシングが必要である。早急にそのようなノウハウを身につけた人材を養成しなければ日本のコンサルタントは先進諸国のコンサルタントに伍して国際的な活動は出来ない、と言う意見が圧倒的でした。協会は設立当初から、この課題を重視され、人材育成のための研修事業を当協会事業計画の大きな柱として取り上げられました。今日会員企業が活発な活動が出来るようになったのはこの人材育成に負うところが大であります。
 研修委員会の委員長には日本交通技術の海外部次長だった島宏氏が選任されました。島氏はご自身の海外業務の経験から誰よりもわが国海外コンサルティング活動には海外業務に適する人材の養成が急務である事を痛感しておられた一人でした。
 私は世銀管理のメコン開発プロジェクトに6年間従事し欧米コンサルタントと一緒に仕事をしてみて、海外業務の難しい点をいやと言う程経験して帰国したばかりでしたのでこの体験を基に研修内容について積極的に議論を重ねました。他の委員の皆さんも海外業務の経験豊富な方ばかりでしたので委員会はホットな議論が展開されました。わが国コンサルタントに必要な具体的ノウハウは何かを絞り込み作り上げたのが最初のカリキュラムであります。さてこのような研修を行うのに相応しい講師はどうするか、適任講師探しがまた委員会の難題でありました。当時例えば開発経済などの専門家は日本には極めて少なかった時代であり適任講師の委嘱には苦労しました。こうして何とか第一回研修のスタートに漕ぎつけたわけですが、それにしても、島委員長の強いリーダーシップは今も忘れることが出来ません。島氏は、かの有名な新幹線の生みの親、島秀雄氏のご長男で親譲りなのか不屈の情熱家でしたが氏はそれから僅か7年後に急逝され誠に残念であります。
 この研修事業は年を重ねるに従いカリキュラムが一層充実され海外現場見学研修も併用され長年に亘り多くの人材を育成してきたわけであります。
 一方、海外協力プロジェクトは、当時、要請ベースが原則ではありましたが、現実には座して待っていても優良プロジェクトに日本が参画する機会は得られないため、事前の情報収集や予備調査が必要になりますが、この点に就いても、協会は当初から海外情報収集事業を立ち上げ、援助案件への橋渡し的活動と言われるプロジェクトの発掘形成活動を推進され、この事業に対しては特に財団法人日本船舶振興会のご理解とご支援を得てこれらの事前活動を実施されたこともわが国コンサルティング活動への協会の大きな貢献であると思います。
 また、わが国コンサルティング活動には途上国の要人にわが国を知ってもらう事が極めて有効であり、協会にはこの点に就いても海外広報事業、要人招聘事業を次々に実施されました。当協会は常に会員のニーズを汲み上げ且つそれを直ちに実施に移された事は、その後の会員の活動にどんなにか有効且つ強力な支援となったか会員企業が等しく感謝しているところであります。
 協会が三十年の輝かしい実績をベースに将来に向かって新たな変化にも対応しつつ一層の事業の拡充とご発展を遂げられますよう祈念してやみません。
(元当協会研修委員・運営委員・日本工営(株)代表取締役副社長)
 
昭和62年度Aコース研修開講式
(筆者は右側来賓席前列5人目)







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