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創立30周年によせて“JTCA設立の頃”
 
今村宏
 
 JTCAが創立30周年を迎えられたことを心からお喜び申しあげます。
 私は昭和47年(1972年)6月末日に、運輸省(現国土交通省)大臣官房政策計画官(国際協力担当)を命じられました。当時の企画部門は、審議官、2人の参事官、政策課、地域計画課、安全公害課、海洋管理官、それに色々な業務分野の6人の政策計画官グループから成るという大所帯で、毎日熱気のこもった議論が大部屋で随所に繰り広げられていました。
 着任早々、私は原田昇左右参事官(のちに衆議院議員、建設大臣)から、運輸部門での発展途上国に対する経済・技術協力体制の強化策を早急に立案のうえ、翌年度(昭和48年度)の予算要求に間に合わせるように命じられました。
 当時の日本は、目覚ましい経済発展を遂げつつあったものの、政府開発援助(ODA)の面では対GNP比率でわずかに0.23%(1971年実績)と、先進DAC16か国中で最下位に甘んじていたばかりか、特に、このうち技術協力にあっては、自国の対ODA比率でわずかに5.4%に過ぎず、DAC諸国の平均22.0%を大幅に下回っていました。
 そこで先ず、道路を所管する建設省(現国土交通省)と組んで、海外で鉄道、港湾、空港、道路などのインフラ建設を促進するための新しい組織を設立する案の検討に入り、既設の10の認可法人と11の特殊会社の例を勉強したりしましたが、この大構想を実現するためにはかなりの準備期間が必要であることなどから、以後の検討課題となりました。
 この間、他方では、陸海空にまたがる運輸部門の経済・技術協力を積極的に推進するための方策の一つとして、諸外国に比べて極めて弱体と見られていた民間ベースの海外コンサルティング活動を早急に強化することが不可欠であると考えられました。
 そこで、人材の育成、海外情報の収集、海外プロジェクトの予備調査、アドバイザーの海外派遣などを行う公益法人の設立を提唱することとなったわけです。
 早速、コンサルティング企業巡りを始めたところ、先ず、(株)日本空港コンサルタンツの秋山会長(当時)がこの趣旨に賛同され、即座に法人設立準備のための部屋と労力の提供を申し出てくださいました。
 ところが、幾つかの企業からは、「新法人のメンバーとなる企業は、現在活発に活動している(社)海外コンサルティング企業協会(ECFA)の会員企業とも重複するケースが出てくると思われるのでむしろこの際、ECFAの業務分野を拡大することによって、運輸・通産(現経済産業)両省の共管としてもらってはどうか」という意見が出されました。
 直ちに、当時、霞ヶ関ビルに立派なオフィスを構えていたECFAに、通産省出身のY専務理事を訪ねて懇談しました。結果は、(予想していたことではありましたが)運輸・通産両部門の海外経済・技術協力に関する事業は、それぞれ別の道を歩むのがベターであろうということになった次第です。
 さて、JTCAの設立準備に際して、その名称を“海外運輸コンサルタント協会”ではなく、“海外運輸コンサルタンツ協会”と複数形にしたり、英語名を直訳のOTCAではなくJTCAとした経緯、政府予算の折衝に当たっては、在外公館勤務から帰国されたばかりの大蔵省(現財務省)主計局柿澤弘治主査(のちに衆議院議員、外務大臣)の積極的なご理解・ご賛同を得たこと、更には、(財)日本船舶振興会から多大のご支援があったことなどについては、拙稿“創立10周年によせて−JTCA設立の頃”(JTCA10年のあゆみ、1983年12月)、“秋山龍名誉会長を偲ぶ−深謀遠慮・即断即決を目の当たりにして”(海外運輸、2000年2・3月号)や、“運輸部門における海外経済協力”(トランスポート、1973年4月号)で述べましたので、ここでは省略いたします。
 このようにして、JTCAは、関係者の熱意と一致協力によって、立案から僅か9か月後の昭和48年(1973年)4月1日にめでたく誕生することが出来ました。
 終わりに当たって、JTCAの今後益々のご活躍と将来に向けてのご発展を心からお祈り申し上げる次第であります。
(元運輸大臣官房政策計画官・現(財)日本造船技術センター顧問)
 
 
髭田勝見
 
 JTCAの海外調査にプロジェクト・ファインディングを目的とする調査があり、正式名称は海外情報収集調査と言われている。これは、発展途上国を訪問して運輸関係プロジェクトを発掘し、プロジェクトとして正式にJICA又はOECFベースとして結実させることを目的とする調査である。結実したときには成功例の実績として計算され、この成功例の結実率を通称「打率」と称されているが、一頃はこの打率を上げることに専念した時もあった。このため国内で予め出来るだけの情報収集を行い、実際に相手国にアプローチするのであるが、予想が全くはずれて不成功に終わる場合もあれば、運よく成功する場合もある。
 ここで思い出すのは、1991年12月の旧ソ連邦崩壊後、CIS(独立国家共同体)が独立したが、その中に中央アジアではキルギス、ウズベキスタン、カザフスタン等があり、いずれも開発途上国として国の復興を強く望んでおり、日本のODAが大いに期待されたので、当時JTCAの調査団としてキルギスとウズベキスタンを訪れた時のことを思い出したので筆をとることにした。
 1992年〜3年頃はまだプロファイの眼が中央アジアヘは向けられていなかったこともあり、この地域への調査団の派遣数は極めて少なく、JTCAとしては最初の調査団であった。従って、何とか調査の成果を挙げたいという強い希望を持って計画した。まず、キルギスでの狙ったプロジェクトは、首都ビシュケク空港の整備計画であったが、これについては、事前にある情報をキャッチしていた。それはキルギスに対しては日本以外の先進諸外国は援助を敬遠している状況であるということ、また、人口も少なく、財政的にも非常に厳しいということから日本からの技術・経済的援助を期待している模様であるということであった。そこで、キルギスには滞在日数に余裕をもったスケジュールをとり、一方ウズベキスタンは状況調査ということで3日間の滞在を予定しただけであった。
 日本からはビシュケクヘはいろいろな経路があったが、当時はまだキルギスには日本大使館がなく在モスクワ日本大使館が該国を兼轄していたのでモスクワ経由で調査日程を立て、在モスクワ日本大使館にまず表敬訪問をして、実情を確認した。
 ビシュケクでは予定どおり航空局職員と面談して、空港の調査を行ったが、空港ビルはガランとした感じで、航空需要も余りなさそうであり、空港施設の拡張整備の必要性があるのかなどの疑問を抱き、大きな期待が萎んで行くような感じであった。
 ところで、キルギスの担当官は顔つきはアジア系で日本人と非常に似ていて対応も非常に親切であった。丁度昼食時になり食事でも招待しようと思っていた時、逆に、昼食が運ばれてきた。見ると日本のかけうどんである。日本人が来たのでわざわざかけうどんを調理したのかを尋ねたが、そうではなく日常にこれを食べているのだというのである。
 うどんのことから日本人のルーツはキルギスにあるのではないかとの話に発展し、急速に親しさが盛り上がり、親睦促進の方に重点が移り、プロジェクトの話は停滞し勝ちであったので、対応の方法を変更し、プロジェクトの方は長期的視野でフォローすることが適当と考えた。そこで、予め次に訪問を予定していたODAの窓口である外国投資経済援助局(GOSKOMINVEST)を訪問することにした。ここでは、航空関係プロジェクトの話はなく、観光開発プロジェクトを強く希望していたので、交通インフラストラクチュアーが未整備な段階で観光プロジェクトの推進は難しいような感触であった。
 本命と見られたキルギスの空港プロジェクトは、期待が薄い状況であったので次に予定されているウズベキスタン訪問には若干足が重かった。
 ところが、ウズベキスタンでは全く予想外のことが起こったのである。
 ウズベキスタンでは国営ウズベキスタン航空社長であるラフィコフ氏に面会のアポイントを求めたが、多忙のため時間は、約20分間という約束であった。このラフィコフ氏は組織上は空港・航空関係の最高権限を有する地位におり、航空・空港関係については政府部内では相当な政治力を有している方であった。
 面談は例により調査団員の紹介から始まり訪問の目的など手際よく済ませ、先方もラフィコフ社長ほか2名が応対した。ラフィコフ社長の質問は、新空港を建設したり、空港を維持管理する場合に解決すべきいろいろな問題が発生するがその対応策をどうするかというグローバルなテーマを問いかけてきた。これには主なものとして、航空需要予測の問題、空港規模の問題、アクセスの問題、建設資金の問題、航空保安施設の問題、環境問題等があり、それらを一つ一つ解決していかねばならない旨を説明したが、この中で長官が最も関心を持ったものは開発途上国ではまだ経験したことのない空港の環境問題であった。周知のように日本では既に、昭和40年代に大阪国際空港、福岡空港で環境問題は経験ずみで空港環境対策については、自信のある分野であった。そこで日本の例を挙げながら航空機の騒音測定によりWECPNLのコンターを作成して対策を進めることなど具体的な話をしたが、この辺りから社長の対応が変わってきたのである。
 いつの間にか先方の職員の数が5〜6名に増え、すでに時間は40分を過ぎていたが会議は終わる様子は全くなく、社長は午前のスケジュールを全てキャンセルし、とうとう正午になった。更に、社長の意向により社長の午後のスケジュールもキャンセルし、午後も引き続き継続したいと言ってきたのである。
 話は対策論を中心として微に入り細に入り、全く時間の経つのも忘れる位に雰囲気は盛り上がった。後で分かったことであったが、われわれJTCA調査団の来る前に日本からあるグループが来て会議をしたが、十分な成果を得られず、極く短時間しか応対しなかったそうで社長自らがわれわれJTCA調査団に何か引かれるものがあったのではないかと通訳の方が述べていた。結局、午後も会議となり、民族衣装の贈り物を頂戴し、最後には晩餐会にまで招待を受けたのであった。
 帰国後、JTCAとしては、このプロジェクトを成功させるためラフィコフ社長を要人として日本に招待したい旨の打診をしたのであるが、残念ながら社長のご都合がつかず社長の来日は実現しなかったが代わりに2名の幹部クラスの要人を招聘することが出来、日本の空港の現状、航空交通管制機関を含む航空保安業務の現状等を視察した後、航空に関する最新の知識と情報を収集して帰国して頂いた。
 
ラフィコフ社長(右から2人目)、筆者(右から4人目)
於 国営ウズベキスタン航空
 
 後日、このJTCA調査の結果、空港プロジェクトはJICA開発調査を経て、OECF(現JBIC)の円借款事業へと結実する大きな契機となったのである。
 プロジェクト・ファインディングは、運もあるが、こちらの知識を一方的に押しつけるのではなくて、広い知識と多くの経験を持って相手のニーズに応えることを第一として、個別の質問に丁寧に答えることが肝要で、後は心のこもった誠意のあるフォローアップが決め手ではないかと思っている。
(元当協会常務理事[初代]・現(財)航空交通管制協会評議員)







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