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(2)高橋財政の展開と現代的財源統制の開始
 老蔵相高橋是清の行った一連の積極政策を高橋財政という(1931〜36年)。高橋は日銀引受によるリフレーション政策をもくろみ、積極的な財政出動を行ったが、恒久的な財政調整制度の導入には反対していたことが広く知られており、農村の「自力更正」を強く求めていた。ここでの彼の主張は典型的なモラルハザード論なのであるが、こうした高橋の発想が大蔵省の主張とうまく符合したことは銅像想像に難くない。これに加えて、彼のリフレーション政策が地方の財源問題を一掃してしまうことになった点も注意が必要である。すなわち、高橋財政では、日銀引受によって捻出された資金を背景に補助金を増大させつつ、これと同時に、起債許可を大幅に緩和し(「暫行特例措置」)、さらには地方の裏負担に対して財投資金を積極的に活用するなど、自治体の公共事業への誘導を行いながら地方の財源不足問題を一時的に解消したのである(これらの量的な推移に関しては図表2-1-2を参照)。こうして地方交付税は高橋の財政観と「地方債の起債+補助金」という現代的な財源統制システムによって導入が先送りされることとなった。
 しかしながら、このような現代的な財源統制による地方の財源不足解消という手法は長くは続かなかった。高橋財政の後半、すなわち、1936年度予算編成過程では健全財政への回帰が叫ばれ、今日から見て大変興味深い財政運営が行われることとなる。
 同年度予算編成過程は「歴史的な予算編成」として知られているが、それは、軍部の激しい予算要求に直面しながらも高橋が健全財政主義の堅持を主張し、ファシズムの影が忍び寄る時期に健全財政の砦を死守したからに他ならない。その後、高橋が2.26事件によって惨殺されたこともあいまって、36年度予算編成は深く人々の心に刻み込まれることとなる。しかしながら、高橋の奮闘の影で財政の真の健全性は深く傷つけられることとなったのも事実である。
 
図表2-1-2 地方歳入の状況
(単位:千円)
区分 道府県 税収 対歳入比 地方債 対歳入比 国庫
補助金
道府県
補助金
対歳入比 歳入
道府県 1931年度
1932年度
1933年度
1934年度
1935年度
221,940
216,239
228,474
240,212
253,510
41.2%
32.7%
29.7%
31.6%
32.2%
96,698
138,082
190,646
168,589
158,711
17.9%
20.9%
24.8%
22.2%
20.2%
32,221
126,469
151,250
139,673
105,631
-
-
-
-
-
6.0%
19.1%
19.7%
18.4%
13.4%
539,301
661,540
768,748
759,819
787,393
1931年度
1932年度
1933年度
1934年度
1935年度
107,828
114,401
135,340
151,195
164,740
14.4%
13.6%
9.7%
12.9%
14.4%
215,205
272,375
813,632
504,214
449,998
28.8%
32.3%
58.2%
43.1%
39.4%
9,829
21,675
18,443
16,566
14,736
3,904
4,701
5,720
5,176
5,049
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
746,464
842,232
1,397,501
1,168,840
1,142,141
町村 1931年度
1932年度
1933年度
1934年度
1935年度
199,884
190,414
193,532
203,341
214,631
37.0%
32.0%
32.5%
34.1%
34.9%
70,566
64,216
62,987
64,661
63,262
13.1%
10.8%
10.6%
10.9%
10.3%
1,746
10,261
11,958
11,278
8,701
13,513
53,647
59,697
39,876
35,147
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
540,445
594,138
595,382
595,832
615,507
(注)補助金における対歳入比は補助金合計の対歳入比
資料:「地方財政概要」より作成
 
 同予算編成過程において、まず、注目すべきは「国債漸減政策」である。「国債漸減政策」とは、増税を回避しつつ国債の発行を自然増収相当分だけ削減するというものである。本来であれば、増税による収支均衡の回復を試みて始めて健全財政ということができるはずであるが、高橋は増税尚早論者であり、国債の発行削減をもって健全財政の象徴としたのである(→国債30兆円枠との類推)。一方、こうした国債発行削減を達成するためにはきわめてテクニカルな財政運営が行われることとなった。第1に、特別会計と一般会計間の会計操作を巧みに行いながら一般会計の剰余金を捻出し、その分の国債削減を実現した。第2に、継続費を利用した支出の後年度への付け替えによって予算の単年度均衡も実現したのである(→現代の後年度負担の累増、隠れ借金との類推)。
 以上の1936年度予算編成過程が高橋の孤軍奮闘の事実をもって高く評価されたことは既述の通りだが、こうした評価は、実際には財政のサステナビリティ、正当性という観点からは疑問なしとはしえない。
 ここでは継続費の動向を見てみよう。たとえば、図表2-1-3における1935年度計画の陸軍支出分を見てみると35年度が1億2,800万円であるのに対して36年度支出分は2,900万円にとどめられている。これが36年度計画になると、36年支出分1億2,800万円に対して37年度支出分は1億1,600万円に増大し、後年度負担が急増していることが読み取れる。この結果、36年度以降、継続費支出額における陸軍省所管額は既定額1億4,087万円から4億8,992万円へ、海軍省所管額は3億6,821万円から4億8,488万円へとそれぞれ増大し、同年度以降の継続費支出総額の7割近くを占めることになった。35年度における既定継続費の追加額は陸軍省所管419万円、海軍省所管8,071万円であったから、その膨張ぶりは、一目瞭然である。また、36年度の歳入予算中、租税は9億2,480万円であったことも勘案すれば、同年度予算では、当該年度の税収以上の後年度負担が軍事費のみで形成されたことになる。
 以上の中央財政の予算編成との関連から地方財政の運営プロセスを一瞥すると、このような国の財政運営と連動して地方財政は中央財政の健全化の道具として利用されていくこととなった。まず、大蔵省は健全財政への回帰という観点から地方への補助金カットと地方債の起債許可の厳格化を実施する。しかしながら、地方救済を求める声は依然根強かったことを受け(たとえば、政友会による「爆弾動議」)、国庫の利子補給を伴わない預金部(現、資金運用部)普通資金を地方に融資し、地方単独事業を増大させながら地方負担のもとに公共事業を継続して実施していったのである。
 以上のように、高橋と大蔵省の志向する健全財政は、増税を伴わず、抜本的な歳出見直しも行わないと言う意味で、いわば、括弧つきの「健全」財政だったわけであるが、このような後年度負担の累増、地方への財政トランスファーの圧縮が進むなか、1935年には中央−地方の事務再配分に関する「内閣審議会中間報告」が提出されている点は大変興味深い。同報告は機関委任事務の弊害とこれに関する地方の財政負担の増大を鋭く指摘した重要なものだったのであるが、結局は、事務配分の問題は手つかずの状態に終わり、緊急避難的措置として「臨時町村財政補給金」が制度化され、垂直的な財源調整が開始されることとなる。こうした動きは政府間関係の再編、交付税の導入という観点から見れば画期的な変化であった。しかし、せっかく事務の再配分と財源保障という現代的な課題が提出されたにもかかわらず、それが大蔵省の健全財政路線(地方財政への負担転嫁)と分権化の先送りという文脈のもとで一時しのぎの補給金として解決が試みられた点は今日的観点からも示唆に富む事実である。
 
図表2-1-3 継続費の動向
年度 区分 1932年度計画 1933年度計画 1934年度計画 1935年度計画 1936年度計画
陸軍省 海軍省 陸軍省 海軍省 陸軍省 海軍省 陸軍省 海軍省 陸軍省 海軍省
1932
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
22,666
4,125
0
-7,621
76,102
1,607
-7,604
-1,025
               
改定額 26,791 69,080                
1933
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
24,906
4,869
0
217
75,625
0
6,925
2,314
24,906
633
87,281
1,187
75,625
65,570
4,094
9,239
           
改定額 29,992 84,864 114,007 154,528            
1934
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
34,375
6,443
0
-1,058
79,318
0
679
-122
34,375
0
-4,058
492
79,318
0
0
-626
33,738
1,050
102,547
-938
78,692
162,370
6,103
0
       
改定額 39,760 79,875 30,809 78,692 136,397 247,165        
1935
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
49,133
5,141
0
-982
81,978
0
0
-120
49,133
0
-5,000
1,588
81,978
0
500
-1,120
46,425
472
75,241
60
81,358
116,094
0
0
124,198
4,191
-53
0
197,452
80,707
0
0
   
改定額 53,292 81,858 45,721 81,358 122,198 197,452 128,336 278,159    
1936
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
62,604
4,535
0
-2,468
85,214
0
0
-32
62,604
0
-5,386
-168
85,214
0
1,548
-10,139
57,305
6
-29,196
-1
76,623
120,516
-4,000
0
28,114
795
0
0
193,139
0
0
0
52,479
75,860
0
0
193,139
114,671
-24,000
改定額 64,671 85,182 57,050 76,623 28,114 193,139 28,909 293,139 128,339 283,810
1937
年度分
規定額
追加額
繰上げ額
節減額等
80,374
3,579
44
-510
11,827
0
0
-3
80,374
0
-10,340
-11,608
11,827
0
1,895
-13,715
58,426
0
-47,346
-6
7,309
157,420
-2,103
0
11,074
0
52
0
162,626
0
0
0
31,393
84,545
0
0
162,626
2,000
24,000
0
改定額 83,443 11,824 58,426 7,309 11,074 162,626 11,127 161,626 115,939 188,626
資料:各年度予算参考書より作成
 
 ともあれ、以上のように、高橋財政期には「起債許可+補助金」という現代的な財源統制システムが確立される一方で、そのシステムは地方をスケープゴートとした大蔵省の予算統制(財政の健全化)の一手段として機能することとなり、交付税を通じた本格的な財政調整という歴年の政策課題は形骸化されたかたちで実現されることとなった。この後、1937年日中戦争の開始にともない、地方財政は戦争という国家目的遂行のための手足として利用されることとなる。次節では、以上に明らかにされた「集権的分散システム」の萌芽が全面化する過程を見ていくこととしよう。
 
(3)「集権的分散システム」の形成と定着 ・・・主としてマクロ調整との関連から
 日中戦争の開始、戦時財政への本格的な突入にともない、地方財政は戦時に必要な財政需要や行政サービスの供給にその課題を限定していくこととなる。これらに必要な財源は、臨時町村財政補給金を臨時財政補給金として恒久化することで対応が図られると同時に税源の中央集中が行われ、地方財政は中央財政への依存をますます深めていくこととなる。いわゆる「集権的分散システム」の形成である。
 戦時期において注目すべきは1940年の地方税財政改革であろう。この点に関しては、戦時に不可欠な財政需要を充足するために国政委任事務およびその費用が増大していったこと、国税の度重なる新設、増徴の一方で地方税の増税は制約を受けたこと、これに中央の地方債抑制方針があいまって課税力の強弱に対応して財政の地域間格差が拡大したことなどが指摘されている。そのうえで、こうした問題への戦時的対応として、配付税および還付税からなる地方分与税制度の成立を中心とした40年地方税財政改革を位置づけたのである(藤田〔1949〕〔1954〕)。
 この1940年改革に関しては、近年、神野直彦が政治システムによる経済システムの統制、戦時行政の執行過程における地域共同体的機能の財源的補完という視点を提起し、財源統制に媒介された地方の意思決定権の喪失を特色とする「集権的分散システム」の形成過程として同改革の再評価を行っている(神野〔1993〕)。税制改革にまつわる地方の意思決定権の喪失プロセスは同稿に譲るとして、以下では、地方の意思決定の喪失過程を起債統制との関連から概観していこう。
 まず、地方債計画の形成過程に関して簡単な時期区分を行っておくと、第1は、資金統制の開始を経て1940年「起債計画並に起債計画稟請書に関する件依命通牒(以下、『40年通牒』)」による起債全体計画の策定が義務づけられるにいたった時期、第2は、地方債計画の今日的な形式が整えられつつも政府資金による全額引受が行われていた1947〜1951年前後の時期20、第3は、財政投融資資金の需要増大にともない民間資金引受が開始され、さらには、財投計画に織り込まれた現代的な地方債計画が確立する1952〜53年以降の時期に区分可能である(具体的内容は、井手〔2004近刊〕を参照)。
 起債統制の観点からまず注目すべきは、第1期、1939年「資金統制計画綱領」の策定である。同資金計画では、地方債の発行総額に枠をはめ、その範囲内で自治体への資金配分を行うことを企図したものである(図表2-1-4参照)。その際、各自治体への資源配分を決定するための参考資料として作成されたのが「40年通牒」に規定された起債全体計画であり、両者の成立をもって基本的には地方債計画の基礎が形成されたと考えることができる。
 一方、預金部資金(現、資金運用部資金)の配分をめぐる地方債統制という観点からは、十分な制度形成はなされなかった。地方債計画における資金区分の作成が制度化されていないという問題もあるが、財務局を通じた地方債許可という戦後地方債統制の軸をなす枠組みが完成していないという点に大きな限界があったのである。確かに、戦時期には1937年預金部の地方支部である預金支部の預金支局への改称、40年税務監督局の廃止、財務局への改称、41年財務局への預金部預金支局の統合と矢継ぎ早に制度改変が進められていく。その意味では、預金部地方資金の貸付審査機能を与えられた財務局を間にはさんで大蔵省−財務局−自治体というルートで大蔵省が財源統制の一端を担う仕組みが強化されたということができる。しかしながら、財務局は終戦時で全国に8つの地方局を持つにすぎず、その機能を過大に評価するには慎重足らざるをえない状況であった。
 
図表2-1-4 1939年度資金計画
 
(1)資金需要額
区分 資金額
公債所要資金
 国債
 地方債
産業所要資金
満州国日円資金所要額
支那日円資金所要額
6,025
5,925
100
3,600
650
250
10,525
(注)単位:百万円
資料:中村・原〔1970:437ff.〕より作成
 
(2)資金供給額
区分 資金額
金融機関
 銀行預金
 郵便年金(郵貯含む)
 保険会社資金
 産業組合関係資金
 その他
私人有価証券投資
7,215
4,350
1,000
500
500
865
2,875
10,000
差引供給不足額 525
 
 こうした戦時期の大蔵省の課題が全面的に解決されるのが占領期における財政機関の再編である。まず、1946年「財務局地方部」の設置が決まり、財務局所在地以外の府県庁所在地を中心に全国に42の地方部が開設されることとなった。戦時期以来の懸案に当然内務省は猛反発したが、大蔵省の巧みな戦術が奏功し、結果、地方部の設置に成功するのである。内務省は、「少なくとも政府資金の融資機関による行政監督的審査は排除すべきではないか」(自治庁「昭和二十八年六月地方債制度について―地方財政法制定当時の地方債制度の考え方と現在における妥当性について―」)との主張をこの後も繰り返すが、地方部を通じた大蔵省の影響力行使は今日にいたるまで続けられてきたことは周知のとおりである21
 
 また、これに加えて、本省と地方部局との連絡を一層緊密にすることを目的とした「大臣官房地方課」の設置も同時に実現している。地方課は預金部資金の貸付を通じた地方への影響力行使を行い、地方部同様、重要な機能を果たしていくこととなる。さらには、このような機構整備を経て、49年起債計画において「資金区分」が明確に示されるという手続き面での整備も進められることとなる(表2-1-5参照)。
 
図表2-1-5 1949年度資金区分
資金配分 銀行 信託 預金部 無尽 信組 農協 保険
国債
地方債
復金債
産業金融資金
投資
321
0
481
2,678
0
3
0
4
22
0
20
340
40
0
0
0
0
1
123
0
0
0
10
85
0
0
0
0
392
0
0
0
4
36
0
資料:「昭和二十四年度資金需給計画(案)」『愛知文書』より作成
 
 以上の地方債統制の枠組みの形成は単に内務省による起債統制への大蔵省の政策関与という問題にはとどまりえない重要な論点をはらんでいた点は注意が必要である。ある大蔵官僚は次のように回顧している。「インフレーション防止、財政膨張の抑制、健全財政樹立のために予算編成権を中央地方通じて強化する必要があった。すなわち、主計局が東京で予算編成するというだけではなしに、主計局が全国に手足を持つということが主たるねらいの一つだった」(金融財政事情研究会「戦後の大蔵省地方機構の発足」)。すなわち、起債をマクロ的観点から抑制するための地方債計画が手続き面において整備されただけではなく、一方では、戦時期からの内務省との対抗関係に蹴りをつけ、他方では、戦時期に形成された大蔵省のマクロ的な予算統制への志向が制度的に裏づけをえることとなったわけである。すなわち、大蔵省は国の予算運営の実効力を高めることに成功しながら起債統制を通じた「集権的分散システム」を確立したということができよう。
 さて、以上に示された地方債計画の形成のプロセスと問題点を簡単に整理しておこう。地方債計画の目的としては1)量的基準を示す、2)地方財政の所要資金の確保、3)地方債の原資の保障、4)事業別内訳の明示という4点を指摘することができる(地方債制度研究会〔2002: 189ff.〕)。1939年の資金統制計画の開始にともなって地方債資金に上限が課されることによって1)が資金配分計画において確定された地方財政資金を地方債計画によって手当てすることによって2)がそれぞれ第1期に整備された。戦前においては一貫して預金部資金が地方に還元されてきたという意味では3)も第1期に分類可能であるが、資金区分というかたちで手続き面の明確化を見出すには第2期まで待たれねばならない(なお、4)の事業別区分が明確になるのは第3期である)。
 以上のように、地方債計画の制度面から見た原型は、資金統制の開始や「40年通牒」の発令等を契機として戦時期に形成されたということができる。しかしながら、こうした制度形成を経て、占領期には、インフレ抑制の必要から大蔵省による起債の計画統制が継続して実施されていったという経済的条件と戦時期以来の内務省との対抗関係に終止符を打ちつつ、国と地方の一体性を強めた予算統制を可能にしうるような政治的条件が重なりあうこととなる。その結果、同期には、政府資金に裏づけられた地方監督権の強化を通じて大蔵省による地方への財源統制が強められていき、地方債政策を通じた「集権的分散システム」が定着していくこととなるのである。ここでは、このような集権的分散システムの確立=地方債政策への関与が大蔵省による予算統制権の強化と強く結びつくものであったことを繰り返し強調しておくこととしたい。

20 戦後の地方債計画の開始期それ自体が実は議論の対象足りうる問題である。鈴木武雄は1948年から地方債計画が始まった点を指摘しているが、統計上は1947年から確認が可能である。鈴木〔1976:240〕および地方財務協会〔2002:192〕を参昭。
21 1978年に起債許可手続きの簡素化が行われ、従来市町村に求めていた財務局への起債申請書の提出およびヒアリングが廃止されることとなり、同局の政策関与は急激に弱められていくこととなる。







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