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第1章 観光振興の視点からみた平良市・宮古圏域の概況
1 平良市の立地特性
(1)位置
 平良市(以下、本市という)のある宮古島は、北東から南西へ弓状に連なる琉球弧の南部に位置し、北東290kmに沖縄本島、西南西156kmに石垣島がある。本市は、島の北西部と池間島・大神島からなり、面積は64.92km2で、東に城辺町及び上野村、南東に下地町が隣接している。
 首都圏からのアクセスは、空路が中心で、東京と約3時間(往復3〜4便/日)、大阪と約2時間30分(往復2〜3便/日)でそれぞれ結ばれている。県内では、那覇と約45分(往復12〜13便/日)で結ばれている。周辺離島とは、航路で結ばれており、多い航路で日に10数便運行されている。
 
図表1-1 平良市及び宮古圏域の位置
 
(2)沿革
 宮古は、古くからミャークなどと称し、外国からは、「太平山」とも称されていた。14世紀頃までに多くの豪族が出現し、その中から目黒盛豊見親が全島の統一を果たしたが、14世紀末には、沖縄本島の琉球王府の支配下に置かれた。
 近世に入ると王府から在藩が派遣され、島の一層の統制強化が図られた。特に寛永14(1637)年に制定された人頭税は、明治36(1903)年に廃止されるまで二百数十年間、島民に対して賦課し続けた。人頭税撤廃後、新しい地租制度施行につづき、明治41(1908)年には、特別町村制の施行によって宮古に平良、下地、城辺、伊良部の4村が誕生した。大正13(1924)年には、平良村は町制へ移行、県立中学校、測候所開設など都市機能が強化されていった。
 昭和に入ると、軍国の波は宮古にも押し寄せ、昭和19(1944)年5月から日本軍の進駐が始まり、飛行場の建設など軍関連施設の建設に島民の多くが動員された。
 戦後、昭和22(1947)年に市制へ移行した本市では、電気・水道・港湾の3大事業、都市計画の策定等により街の基礎づくりが始められ、昭和47(1972)年の沖縄県の本土復帰以降、情報・交通網の近代化等を経て、宮古の中核都市として着実に発展を遂げてきた。
 現在では、「海のまほろば・ふれあいランドひらら」を市の将来像に掲げ、人も街も健康な街づくりを目指している。
 
一口メモ
 宮古の人の精神を象徴する言葉に『アララガマ』という言葉がある。直訳すると“なにくそ”とか“負けるな”というような意味になる。台風や干ばつ、重税といった厳しい環境の中で必死に生活してきた人々の中から自然に生まれてきた言葉であり、今日の宮古島の発展を支えてきた言葉といっても過言ではない。
 そんな『アララガマ』の精神は『久松五勇士』の史実によく表れている。
 この事件は、明治38(1905)年5月、日露戦争の最中に宮古近海をロシアのバルチック艦隊が北上するのを発見、これを連合艦隊司令部や県知事へ知らせるために久松出身の漁師5人を通信施設のある石垣島まで(宮古島から直線距離130km)向かわせたもので、5人は、サバニ(くり船)に乗り、荒波と闘いながら一昼夜漕ぎ続け、その任務を果したのである。宮古島の人々は、今なおこの史実を誇りに思い、アララガマの精神で、明るく前向きにまちづくりに取り組んでいる。
 
図表1-2 宮古の歴史年表
西暦 年号 宮古でのおもなできごと
1317年 文保元年 宮古の人が中国に漂流し、初めて宮古が登場する。
1365年 正平20年 目黒盛が与那覇原軍を倒し、宮古全島を統一する。 島民から豊見親と称えられる。
1390年 元中7年 与那覇勢頭豊見親が中山に入貢し、宮古の首長に任命される。
1500年 明応9年 仲宗根豊見親が中山軍とともに八重山のオヤケ赤峰を征討する。
1583年 天正11年 宮古上布がつくられる。
1609年 慶長14年 薩摩の島津氏が琉球を侵略する。
1637年 寛永14年 宮古・八重山に人頭税が課せられる。
1678年 延宝6年 多良間島の農民が人頭税に対して反乱する。
1771年 明和8年 大津波が来襲する(死者2548人)。
1872年 明治5年 琉球王国が廃止され、琉球藩となる。
1873年 明治6年 ドイツ商船ロベルトソン号が上野村沖で座礁する。
1876年 明治9年 ドイツ皇帝がドイツ国民救済感謝碑(ドイツ博愛記念碑)をたてる。
1879年 明治12年 琉球藩を廃し、沖縄県が設置される。
1892年 明治25年 人頭税廃止運動がおこる。
1893年 明治26年 中村十作、城間正安、西里蒲、平良真牛が上京し人頭税廃止を政府に請願する。
1903年 明治36年 人頭税が廃止される。
1905年 明治38年 久松五勇士が「バルチック艦隊見ゆ」を通報する。
1908年 明治41年 平良・下地・城辺・伊良部の4村ができる。
1913年 大正2年 多良間村が平良村より分離する。
1928年 昭和3年 宮古中学校(現在の宮古高校)が設立される。
1945年 昭和20年 第一次世界大戦終戦。
1947年 昭和22年 宮古民政府が設立する。
1948年 昭和23年 上野村が下地村から独立する。
1955年 昭和30年 民間の航空路が初めて開設される。
1960年 昭和35年 宮古島台風(瞬間最大風速64.8m)。
1966年 昭和41年 第2宮古島台風(瞬間最大風速85.3m)。
1967年 昭和42年 南西航空(現・日本トラストオーシャン航空)就航。
1968年 昭和43年 第3宮古島台風(瞬間最大風速79.8m)。
1972年 昭和47年 本土復帰し、沖縄県となる。
1974年 昭和49年 多良間島空港が開港する。
1977年 昭和52年 地下ダムの開発が始まる。
1979年 昭和54年 下地島空港が開港する。
1985年 昭和60年 第一回日本トライアスロン宮古島大会が開催される。
1989年 平成元年 宮古〜東京直行便が就航する。
1992年 平成4年 池間大橋が開通する。
1993年 平成5年 プロ野球の初キャンプが行われる。 うえのドイツ文化村が開業する。
1994年 平成6年 太陽光発電による送電が開始される。
1995年 平成7年 来間大橋が開通する。
1997年 平成9年 宮古空港ターミナルが完成する。
1998年 平成10年 風力発電施設(城辺町)が完成する。
資料:「私たちの宮古」(宮古地区中学校副読本編纂協議会)
 
(3)自然特性
ア 気象
 本市のある宮古島地方の気候は、高温多湿な亜熱帯海洋性気候で一年を通じて暖かい気候のため、プロ野球のキャンプやトライアスロンなどスポーツ合宿やイベントが数多く行われており、スポーツ・ウェルネスアイランドを目指す宮古島にとって重要な要素となっている(図表1-3)。
 一方、宮古地方は、古来よりその地理的関係から台風の通り道となっており、台風の発生する夏秋の時期は例年、大型台風が数多く襲来し、甚大な被害をもたらしてきた。こうした台風への対策が、宮古文化に大きな影響を与えている(図表1-4)。
 
図表1-3 気象観測年別集計値(平成分)
  気温(℃) 平均
湿度
(%)
降水量
(mm) 
年間降水
日数(日)
1mm以上
年間日照
時間
(h)
年平均
気温
最高
気温
最低
気温
年間
降水量
日最大
降水量
平成元年 23.3 33.3 11.3 78 1965 101 126 1750.1
2 23.5 33.2 12.1 81 1954.5 125 139 1754.1
3 23.7 33.1 11 79 2115 173.5 113 1857.3
4 23.4 33.1 11.2 79 2713.5 173.5 154 1622.4
5 23.7 33.8 9.6 77 1361.5 143 107 1839.6
6 23.7 33 12 77 1659.5 160.5 112 1780.1
7 23.3 32.4 10.9 78 1861 90.5 126 1640
8 23.4 33.8 10.6 77 1952.5 212.5 119 1850.6
9 23.4 32.5 12.6 78 1788.5 100 120 1751.8
10 24.8 34.2 11.2 79 2664 142 158 1750
11 23.9 33 10.6 77 1931.5 123 128 1690.9
12 23.7 33.1 11.3 78 2282.5 122 134 1754
13 23.8 33.2 11.7 74 2399.5 142 131 1742.7
出典:宮古概観(平成15年)
 
図表1-4 台風接近回数
注)平成元年以降・宮古島より300km以内通過分)
出典:宮古島地方気象台資料より作成
 
イ 地形・地質
 宮古島を中心とする圏域の島々は、全体が概ね平坦で、低い台地上を呈している。平坦な地形は、農耕に適しており、圏域の総面積の約54%が耕地として利用され、サトウキビや葉タバコ、最近ではマンゴーなどの果実が栽培され、農業は宮古圏域の基幹産業となっている。
 大きな河川、湖沼等がないため、古来より水は大変貴重なものであった。そのため、島内では、水と信仰が結びつき、水の湧く場所を神聖な所として大事にしていた。現在でも、島内には大和井(ヤマトゥガー)や盛加がー(ムイカガー)などの水場が残っている(写真1-1〜2)。
 地層は、隆起サンゴ礁を母岩とする琉球石灰岩からなり、砂岩と沈泥状の泥板岩が重なり合ったブロックで形成されている。こうした岩は、耕作の際、すぐに出土するため、畑や家の垣根の材料に利用され、宮古地方独特の雰囲気を醸し出している(写真1-3〜4)。
 土壌は、島尻マージの他、一部にジャーガル、沖積土壌が見られ、弱アルカリ性又は、中性で粘土とロームを含み、石灰岩の破片が混入した石質粘土やその他数種の粘土が広範囲に分布している。
 
写真1-1 大和井(ヤマトゥガー)
 
写真1-2 盛加がー(ムイカガー)
 
写真 1−3 出土した岩を使った垣根
 
写真 1−4 井戸を囲む石垣(狩俣地区)







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