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カッター
 大量に召集した水兵さんの訓練用のものか、或いは建造されるであらう艦艇搭載用のものか・・・、8m程の同型丈が多数建造されました。この頃は己に、多くの転職者や国民学校高等科の生徒も多く入所して、従業員の数も大巾に膨れ上がっておりまして、若手の船大工さんは戦地へ行き、残っているのは初老の職人と見習工、そして転職者、生徒(女子を含む)です。どの様な分担かと申しますと、主構造は職人や指示された通り仕事する見習と転職者、鉋がけ・・・転職者、取付〜職人、見習工、鋲のかしめ作業〜女子生徒・・・という様な具合で、本来は熟練の職人が造る船も、この様な有様でした。今の木工家具工作の機械加工様な事も無く、全て手作業で、簡単な様に見える鋲締も、なかなか要領熟練の要る作業で、之の良否も、后々の水船の原因とも考えられます。それは大湊へカッターを納入してからも、漏水を止める事が困難であったと聞いております。木材は、水を含みますと膨らみますから、合せ目埋めた孔、などは大抵は時間の経つに従い密着して終います。然し、鋲のかしめ作業で内部で曲って終った様な鋲の坐屈は木部の中で大きな空胴となり、自然膨張に依る閉鎖・・・は無理になります。“納期は迫る”“毎日の深夜業”“不馴れな従業員”短時間で造る・・・は熟練工丈でなければ無理なのです。
 
 
 本によりますと、始めは震洋という合板製の高速艇で当初の爆雷投入が后々直接爆装となったと記憶しております。発注は暁部隊であって、海軍の連絡艇を基本としており、木造への振向の為、総棟梁と私丈より、居ない現図場で修正し、船体寸法を測り、他企業への送付手続きをした記憶が有ります。でもその后資料(手元の)を廃捨したので正確な寸法は不明ですが大要はL5.00×B1.5×D0・80の様なもので構造も次頁の様なものです。この頃は己に合板も入手不可で当地で入手出来る、杉、楢材が主です。古エンジンが次々と集り、現在のスクラップ会社の様に積まれました。そして鋳放しのプロペラ(鋳鉄)や軸受なども次々と到着しました。そして生鉄の丸釘が配給になったのも、この頃です。硬材には全て曲って終い全く使用出来なくて困りました。丸釘さえ無かったのです。
 
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 全て外板は1寸3分の丸釘止。外板は単板です。ガラスさえ3糎以上の厚ガラスは無く、家庭の窓ガラスより若干厚いかなーの位です。木棯子は全く有りません。今なら片手間のレジャーボートでも、もう少しましな物でしょう。暁部隊では、この建造の為に船大工の経験者の班を組んで、当地2ヶ所のヤードへ派遣して来まして建造にも当らせております。玄人丈にどの様な気持ちであったでしょう。わづかの職人、転業者、見習工、小、中学生、(歌手の三橋三智也さんも小学生として来て居りました)今の若い方ならテレビを見てますから、この船に銃弾が当ればどうなるかは訳りますが、その様な事を訳らぬ私にも、艦の前に行く前にどうなる・・・かは想像出来ました。簡単な話ですが伝馬船とぶつかっても沈むだらうと考えてましたから。只の1回丈使えば良い船だった訳です。后で暁部隊へ入隊した同僚の志願兵の話を聞きますと、操縦席の右側に棚が有り、1包の菓子と酒一升びんが常時置かれており、出陣の時はこの酒を飲み、菓子をつまんで出発する事になっていた・・・と申します。試運転は敗戦の色が濃い8月に2隻丈航走してました。サイレンサーの無い排気は半分水中へ、とはなっていても爆音は高く、舟は牛歩の如く・・・でした。敗戦で大方は毀したのですが残った船は戦后、米兵がジープのエンジンを入れて函館港でカモ撃ちをしておりました。
 
 之の船はヤードの作業としては現図作業丈で終わりましたが、上記の特攻艇より以前の事ですので、途中で中止となったのではないかと存じます。現在の自衛隊の木造掃海艇と外見が似ており250型と思います。線図より見ておりませんが、市内の他工場では、キール、、・材を付けて中止?の造船所も有りました。・から中央部は扁平な甲板でクレーン1基の設備が有ります。船形はナックル型です。
 250トン機帆船 この船は戦中、木造船として一番大きいものですが、私等の造船所では之丈の進水設備が有りませんので、建造されませんでしたが、S-18年初、にはかに、すぐ近い製材所に国策としてこの造船所(250トン型専用)を設立したのです。この工場の総棟梁さんは当時、横須賀の中造舩で職人の監督として働いて居りましたが、上司よりこの造船所開設に当り総棟梁として行かないかと云われ、約80人の船大工さんと家族を客車3輌の専用車で、津軽海峡を越えた訳です。地元には この工場へ振向ける大工さんは全く不足で集める事が出来なかった様です。1度に2隻位の着工ですから80人の大工さんでは全く不足で、他は、当時中国や朝鮮の労働者約2,000人位を使った様です。でもこの船も1隻とて進水しない中に戦いは終りました。この総棟梁さん(西若松氏)はその后、亡くなるまで、この地に居られましたが、一番困った事として私に話した事は、集めた船大工さんは何れも本州南の方々ばかり。S-18年の暮からS-19年の春にかけての冬の北海道の寒さに閉口し、殆んどが、本州へ帰って終ったとの事です。浜辺の冬は墨壺の糸も凍り、板面に墨を打てない事もしばしばです。加えて先の道具の項でも少し、申しましたが、堅材も多いこの250トン型の作業は北海道と較べての小さな道具類は、作業を進める上で南の大工さん方は寒さと共に非常に困難も有ったのではないかと考えております。
 
 この造舩場は、大正初期に建立されたもので、木船工場が主で内然材部門は、建造される曳船の焼玉機関(35〜40ps)の整備の為です。
 前年まで1人〜2人丈入って来た徒弟工制度を廃止し、見習工制度とし前年度の徒弟工1名を編入し、この年(S-16春)から10人の新しい見習工が生れ、専属の指導係を決め、翌年からは、更に見習工も順次増え、青年学校の独立校も必要となり造船青年学校としてこの企業内に誕生しました。小学校を出て社会に就職した者は全て青年学校で教育を更に・・・というものですが内容は、全て戦争遂行の為のものばかり。只、船大工としての憶える必要の有る事を始めて組織化して教育した訳です。同じ企業内でも製作所(鉄工関連)に於いては、尚高度な技術知識を教えたのに較べて、船大工見習工に対するものは遥におくれていた事は事実です。それでも従来の徒弟制度にくらべますと、尚々新しいものであったのです。私がその様な職場に入ったのは、人並外れて弱かった我が子を心配した母親がうす暗い電灯の下より木の粉と海の空気を吸えるこの職場が、きっと長生き出来るだらうとの親心であったのですが、この職場は事実空気は良いでしょうが、人並優れた体力を必要とする場を母は知らなかったのです。7時45分〜18時00の定時作業は当時は一般の職場は当たり前であり、9月〜4月は連続の重労働なのです。(但し漁場出漁の留守期間5月〜8月は見習工は雑仕事丈でした。)
 汽車通いですから朝は6時30の乗車、帰路は又午后7時00頃の乗車で冬分は暗い内から暗い時に帰る・・・となります。お笑い下さい、日給75銭也。どれ丈船大工に適しない体であったのかと当時の(S-16)小学校通知箋を見ますと、身長137.4cm、体重30.1kg、胸囲64.0cmで当時の体育カードには肺活量2280cc、背筋力78kg、走力(60m)9秒9、跳力(走り巾とび)3.37m、投力(模擬手投弾)13.65m・・・で青年学校の教錬での投テキでは自爆組の一人でした。
 さて始めにさせられる仕事は釘運びというもので細工場(建造工場)の2階に有る材料倉庫より、釘やボルト、副資材を現場まで運ぶものでした。后で図で示しますが、6ッの間の和船細工場と他に洋型船の細工場が有り、更に船揚場も有りそれぞれに釘類を凾に入れて運ぶのです。之が又前記の様な小学6年生以下の体格ではとても重くて大変でした。
 
 
 というのも上記の運搬函に13φ×L550m/m位のボルト5本でも入れるようなら、相応のWとなり、アッチへふら〃〃コッチへふら〃〃と歩く始末で良く倒れも、逃げもせず我慢して来たものと思われます。之を半年も続けますと、その船〃〃に使われる副資材の名称や形、大工さんの名前・・・などなどが判って来ます。始めて道具が支給されたのはその頃と思います。
 鉋2丁、ダメ切1丁、4分のみ1丁、両刃鋸1丁、バラめ鋸1丁、かんがり鋸1丁、指金1丁(眞鍮製)、金鎚2丁、荒、中、仕上の砥石。之でまづ第一に自分の道具函を作る事でした。他の職人さん方は見習工として動く私達を見るのも面白く(10人もの)支給された道具をヒヤカスのも楽しみの様でした。道具函は先の図のよりひと廻り小さく板厚も薄いものです。







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