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まえがき
 平成二年春に、北前船の法規面を主としての基本調査を終わった時、素人にも訳る地元での木材手配の資料をと云われて、作ってみましたが、50年も前の事と2〜3年の間に憶えたことを紙の上に表すということは、大変困難な事でもあり、素人にも訳る様に・・・と進めましたが、船大工の仕事を訳る人でなければ説明が無理な所も出て来ます。船大工の手仕事はどの様なものかを残しておきたいとして幼稚な物語りを記す事としました。
 昭和16年に社会に出た頃は、和船の時代を已に過ぎようとしている頃でもあり、全国各地の造船場では木船も(鋼船も)戦時標準型仕様に依る洋型機帆船の建造が始まっていた頃です。従って小さな造船場は大きな所へ吸収され、和船の仕事も少なくなり、戦標船を造らぬ所は資材の配給もなくなったと聞いております。北洋漁場が主な仕向先であった勤務先の造船場も、昭和18年に北洋での敵潜水艦に依る出漁母船の撃沈に依る被害が莫大のため、遂に出漁も中止となり、和船の建造も停止された訳です。この間わづか3年弱の和船とのおつき合いでした。この造船場は大手水産会社の付属造船所で、今で云う大量生産方式の様な和船の建造方法で、北海道、或いは日本中でも数少ないものの部類と存じております。曳船を含めての全ての船は構造が独自の丈夫なもので、建造中止の后には色々の建造資料が残されており、廃棄処分の寸前に入手したものが今手元に有る、わずかの資料で、どうやら当時の姿が見える様な次第です。今考えますと当時に もう少し詳しく聞いておけば良かったものを・・・と悔やまれますが、その頃はまだ子供の年齢で遊びたい盛りで、そこ迄は気が廻りません。之からどの様に教えられて、どの様な道具で、どの様に工作したか、を記してみたいと存じます。神社佛閣のように、現在その現物が有って、之を解体し、新しい材料と替えて、復元する・・・というならば気が楽ですが、詳しい図もなく、絵馬にも板図にも、どの様にして造るのかは無い訳です。“大型の和船”=弁財船の建造にも多少役立つか・・・と思い記す次第です。
 “舟大工さん”と申しましても千差万別なのです。
・隅田川の川船を一生造り続ける人
・大型貨物船に乗って専ら船内補修を行う人
・小さな造船場で磯舟とか機付の小型漁船を造る人
・中位の造船場で鋼船の内装工事、木工事を行う人
・大手の造船所等で専ら特殊なボートを造る人
 という様に船も範囲が広いので中身も様々なのです。私丈の定義を無理に付けるとすれば『船全体の姿を訳り木船の大要を訳る人を舟大工さんと呼びたい』・・・と思いますが今はこの考えは無理で己に木船が消えつつあり、木船色々の経験をする人も少なくなりました。その昔の船大工さんは今、冷凍運搬船の艙内木工事をしたり、陸上の型枠作業をしたり、の様で中には、建築大工さんの仕事をされる人も居ります。
 いま、横浜の舟艇専門の造船所で排水量1,000トンの特殊な木造船を建造している様ですが、この船大工さんも高年齢となり、今回の工事が終われば、后継者が無いので木船の建造も最後となる様だと担当者が申しているそうです。
 船大工が熟練工となるには10年を要します。之は船全体を手掛けられる様になる為の経験年数です。その昔では年季があけて兵隊を満期で帰った頃の人を1人前と見た様で、そのあとは、その人、その人の技術に依って、世間での給金差が出た様です。
 小さな造船場では、建造作業の他に“山の木を見れなければならない”という事が有ります。私の居た所は大量生産的な工程ですから、職人が山へ出かけるという事は無く、先輩の専属の棟梁さんが、山と製材屋へ出かけます。ですから私には木を見るという能力はつきませんでした。“船大工見習”の物語りとして読んで戴けば或いは現職の職人の方や、和船などを調べられる方々にも思い当る事も有るだろうと存じております。
 
1991年8月末吉
和形船のこと
 
 之から話す和形船は、北海道の或る特殊な造船場の事で之が日本全国の和船の事ではありません。但し、この造船場が残した実績は特筆に値するものと思います。
 船大工数100人以上、年間建造量100隻以上。(和洋合計)でそれも9月〜4月間で5月〜8月は全員漁場へ出発し工場は空となります。いわゆる北洋漁場へ船を送る仕事で、現地へ出向いた船大工方の多くは、その修理、及び新造に当たる訳です。船材の内、船底材、海具は一度に数拾隻分を纏めて、道内道外より買付け、その他は原木を自家製材所で加工し、釘類は、市内へ発注し、工場内の鉄工所(鍛冶場と云っていた。)は、現場合せが必要な金物、ボルト類、亜鉛メッキ等に限られた訳です。同形船を同時に数隻の建造を出発させるので、作業員相互の競争心が起き、それは〃〃〃つらい作業であったと当時の船大工方は申しております。
 
四枚矧 船
二枚矧 船
 
 この造船場は、個人経営の小さな所ではありませんから、見習工は少くも兵役に出る頃には一人前にし充分な能力を発揮してもらう為に、話に聞く所の仕事上の秘密は殆んど皆無であったと思います。大量生産工場には秘密?は不要のようでした。
 従業員の多くは周辺に住み、この町の相当数がこの工場の従業員であり、店々も、之で成り立っていた様です。北海道の南は暖かいと申しましても冬はマイナス10℃近く下り、木材、金物類は全て凍りますし、積雪もあり、極力露天の作業は行わない事となっておりました。曲げ加工を要する凍った材料は、蒸気釜(蒸凾)に入れ解凍して使います、さもなければ折れて終うのです。ノミが折れたり、墨壺での線引も糸が凍るため、板に付かなかったり・・・積雪の中から雪を除けて木材を取り出すなど冬の障害は多くありました。







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