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私はこう考える【自衛隊について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1996年7月号 サンサーラ
顔が見える国の集団的自衛権 〜私案・日本方式の「平和国家モデル」〜
小川和久
日本が動かした普天間返還
 いまの日本は蟹に似ている。自分の甲羅のサイズに合わせてしか、蟹は巣穴を掘らないからである。この日本的状況、最近で言えば沖縄の普天間飛行場の返還に関するマスコミ報道に見られる。
 電撃的に決まった普天間飛行場の全面返還について、日本のマスコミは一連の「日米安保の強化」に対するアメリカ側の温情による反対給付、要するに「お土産」として受け止めた。しかし、真相は逆である。私が知るかぎり、日米首脳会談が半月後に迫った四月二日の段階では「日米安保の強化」の路線は決定していたが、普天間返還は「不可能」ということで日米両政府は了解していた。それを、橋本首相の政治的リーダーシップで取り戻したのである。
 確かに、一方では日米物品役務相互提供協定(ACSA)の締結や日米防衛協力ガイドラインの見直し、極東有事と有事法制の研究などの動きがあり、マスコミが幻惑されたのも無理からぬところはある。だが、だからと言っていつも日本がアメリカの言いなりになると頭から決めてかかるのは、いかがなものか。そこにおいては、本来的にどういう形で問題の解決が図られるべきか、という本質的な議論が必要だったのではないか。
 そうした認識があれば、安保強化とのパッケージとか「アメリカからのお土産」などとワンパターンで報道されることもなかっただろう。
 本質的な議論からすれば、普天間返還を実現しつつ、同時に日米関係を健全に維持していくうえでは、既存の容器を前提に考えてはならなかった。それは官僚の発想であり、官僚機構の仕事である。それもあって、既存の容器である嘉手納基地と岩国基地に普天間飛行場の海兵隊航空戦力を分散するという日本側の最初の提案は、有事に膨れ上がる空軍と海兵隊の航空機を考えると普天間飛行場は必要不可欠で返還は困難、とアメリカ側から一蹴されたのである。
 それでは、アメリカの軍事的プレゼンスを低下させず(そうしないと普天間返還に応じてくれない)、同時に普天間の全面返還を実現するという高度の条件をクリアするにはどうすればよいのか。嘉手納、岩国など既存の容器に分散することはもちろん、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブなど沖縄にある海兵隊地上部隊の基地や空軍弾薬庫地区を海兵隊航空部隊のためにデザインし直し、有事に膨張する機数も含めて収容するほかないではないか。結論だけいえば、橋本首相はこれを提案し、アメリカ側が受け入れたのである。
 むろん、普天間返還に関連して「基地転がし」という批判も生まれている。その心情は理解できるにしても、着実に手順を踏まずに米軍基地問題を解決できる方法があれば教えて欲しいものだ。
 ここでいう手順とは、日本が原理原則として掲げる平和主義や国連中心主義を機能させる方向に日米安保体制を誘導し(私は、それを「日米安保の平和化」と呼んでいる)、世界の軍縮が進展するなかでしか米軍基地問題は解決しないという平和実現のプロセスを指す。
 その意味で、普天間飛行場の返還は日本が望むなら日米安保を動かしうる可能性を示した点で、日本外交の重要な転換点となる出来事と考えてよい。だが、マスコミ報道に代表される日本の世論は、その角度から受け止めることができなかった。まさに、甲羅に似せた穴しか掘ることができなかったのである。
国家意思を旗幟鮮明にせよ
 同じことは、ACSA締結など一連の「日米安保の強化」や集団的自衛権をめぐる論議にも当てはまる。なぜ、アプリオリに罪悪視するのだろう。
 そもそも、同盟関係は国の安全や繁栄など国益を図るために結ばれるものだ。当然ながら、綱引きもあれば反目もある。日米といえども例外ではない。
 そこにおいて、同盟にまつわる様々な義務は国益を求めて発言するうえでの対価のようなものだ。その代金を正当な理由なくして払わずにおいて、日米安保を日本の平和主義実現の方向に引っ張ることなどできようはずがない。
 その点からすれば、日米安保の義務に関して「できること」と「できないこと」を明らかにしようという橋本首相ら連立政権の姿勢は、あながち悪いとはいえない。問題は、同時に議論されなければならない「する」「しない」の議論が明確にされていない点だ。
 「できる」「できない」は技術的問題で、いわば官僚の仕事である。これに対して、「する」「しない」は国家意思の問題だ。技術的可能性の検証を踏まえて、できる場合でも「やらない」、あるいは技術的困難が伴っても「やる」と旗幟鮮明にすることこそ政治であり、国家意思の表明である。戦略といってもよい。日本のマスコミ報道は、官僚と同じ発想で技術論に終始している点で戦略的視点を欠いていると言わざるを得ない。
 そこからすると、集団的自衛権の問題にしても国際的に通用する、しかも日本独自の考え方がありそうな気がする。
 集団的自衛権(right of collective self defense)は、『国防用語辞典』(朝雲新聞社)によれば「国際連合憲章第五十一条によって規定された自衛権で、自国と密接な関係にある国家が武力攻撃を受けた場合に、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、被攻撃国を援助し、共同して防衛する権利」と定義されている。日米安保に即していうと、アメリカが戦争状態にある場合、日本が直接的攻撃を受けていなくても、日本は同盟国としてアメリカを支援することになる。
 これに対する日本政府の見解は、次のようなものだ。
 「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されてもいないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」(昭和五十六年五月二十九日、稲葉誠一衆議院議員に対する答弁書)
 ここにおいても、集団的自衛権を国際的に通用する水準で行使できるよう、憲法を改正してでも取り組むのが本来的な議論のあり方だろう。
 日本が国際的な水準を満たす形で集団的自衛権を行使しようとするとき、憲法改正は避けられない。当然ながら、アメリカからもたらされたままの理念と骨格しかない憲法をいたずらに護持することは、憲法擁護の立場からしてもおかしいという考え方も成り立つ。平和主義の理念を実現するためには、憲法を改正して肉づけをしなければ、憲法に平和実現の力が備わらないからである。
私案「平和国家モデル」
 と言っても、ストレートに憲法改正を叫ぶアプローチでは逆に国益を損ねる恐れが大きい。
 日本が集団的自衛権の見直しを論議するにあたって、まず第一に提示されなければならないのは、周辺諸国の懸念を払拭しながら、国際的な水準で日本外交を進めていくために、本来的に日本はどうあるべきかという構想である。
 すなわち、憲法改正や平和憲法の新たな制定という選択肢まで視野に入れながら、日本の平和主義と国連中心主義にふさわしい形で外交と安全保障の構想を描き、それを世界の国々に示し、納得してもらい、信頼を勝ち取ることが、集団的自衛権の問題をクリアしていくうえでの正攻法ではないかと思う。
 七年ほど前から、私は独立国家の外交・安全保障構想として「平和国家モデル」を提唱してきた。まずは、日本の外交・安全保障構想について「平和国家モデル」に即して考えてみたい。
 この「平和国家モデル」は、「独立国家が安全を保ち、外交力を備えるための条件」を洗い出し、構想化したもので、日本のみならず、世界中のどの国においても適用可能なモデルといえる。概念図では、下から「信頼関係の醸成」「平和創造力の整備」「同盟関係の選択」と三段階に分かれている。
 各国が三つの段階ごとに自国にとっての条件を洗い出し、クリアするための政策を実行することによって、外交と安全保障を通じて平和実現のための構想を描くことができるのである。
 ここでは、日本が取り組むべき「日本型」の「平和国家モデル」を考えていくが、特に三角形の底辺に置かれた「信頼関係の醸成」の部分がポイントとなってくる。この部分において日本がクリアすべき条件は、(1)歴史認識に基づく戦後処理、(2)防衛力整備を通じた平和国家宣言、(3)国民全体の戦争責任の明示、(4)平和憲法の制定、の四点である。なかでも、アジア諸国との「信頼関係の醸成」にあたって重要となるのは「防衛力整備を通じた平和国家宣言」である。
 これについては、「形容矛盾」の印象が先立つだろう。「なぜ『防衛力整備』が『平和国家宣言』と結びつくのか」と疑問が出るのが普通だろう。しかし、「侵略できない構造」となっている日本の防衛力の現実を見れば、「防衛力整備を通じた平和国家宣言」の意味を理解してもらえるだろう。
 結論的に言えば、どんなに防衛費が増えようとも、日本の防衛力は現在の構造にある限り、本来的な意味での侵略などできるわけがないのである。これは先進国でも理解している専門家は少ない。
 人体に譬えたとき、日本の防衛力は筋骨隆々たる体躯を誇っているように思われる。豊富な防衛費を与えられ、高性能な兵器を備えているからだ。しかし、外見からは判断できないことだが、ズボンの下に隠された日本の利き足は義足なのである。適切な譬えかどうかわからないが、日本は再軍備のプロセスでアメリカの外科手術によって利き足を切除された身体なのである。
 従って、豊富な防衛費とハイテク兵器で固めた日本の防衛力はアメリカが必要とする部分だけが世界最高水準に整備されてきたと言って構わないだろう。アメリカと二人三脚を組むときだけ強力な軍事力として機能するが、軍事的に自立できない構造なのである。
 むろん、島国の日本から海を渡って朝鮮半島や中国大陸を侵略できる軍事力ではない。ここで本来的な意味での「侵略」を定義しておくなら、「外国の領土に十万人単位の巨大な軍事力を敵前上陸させ、これに間断なく補給などの後方支援と増援を行ない、さらに相手国の軍事力と戦闘しながら一定規模の重要地域について、たとえば一年以上の期間にわたって占領を続け、それによって国家の政治目的を貫徹できるほどの軍事的行動」として構わないだろう。そこからすれば、日本の防衛力は現在の百倍の防衛費を与えられたとしても、構造が改まらないかぎり侵略など不可能なのである。
国連憲章の優位性
 日本としては、まず第一に、日本の防衛力が侵略できない構造になっている現実をアジア諸国に説明し、第二として、将来を通じてその構造を維持し続けることを宣言する、というプロセスが必要となる。これが「防衛力整備を通じた平和国家宣言」である。
 そこにおいては、当然ながら自衛隊は侵略できない構造に縛られるので、大規模な敵前上陸作戦ができるような軍事力を持つことはない。従って、自衛隊がPKOで海外に出る場合、それも派遣部隊の数が多いときは、輸送能力については国連事務総長の命令で他の国が受け持つか、民間の輸送力をチャーターする形をとることになる。
 このような形での自衛隊の海外派遣であれば、中国を含むアジア諸国が日本の侵略を懸念することはなくなるだろう。ここまできて初めて、日本は国連に対する責任を全うするために、自衛隊全体をPKOに派遣することすら理論的には可能となるのである。
 しかしながら、日本なりの外交・安全保障構想を描くには時間も必要だし、その間に外圧に流される格好でズルズルと憲法違反を犯すような状況だけは避けなければならない。
 そこはやはり、日本国憲法と国連憲章と日米安保条約の三者の関係をもとに、集団的自衛権に関する「日本モデル」を提示し、世界平和実現に向けての国際公約や同盟の義務を果たすことが、外交・安全保障構想を描く作業と同時に必要となるだろう。
 日本国憲法は、国連憲章と日米安保条約のいずれに対しても最上位に位置している。従って、その憲法解釈は何物にも優越すると考えることができるが、同時に日本国憲法は国連加盟を容認しており、当然ながら国連憲章の条文のいずれをも否定していないこともまた事実である。そして、国連憲章第五十一条は次のように集団的自衛権を認めている。
 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない(後略)」
 これを前提としたとき、国連憲章に基づく集団的自衛権の行使について、日本として一つのモデルを提示できる可能性が生まれてくる。
 その場合、懸念材料となるのは日米安保条約によって日本に駐留している米軍の行動である。これが常に戦争への「巻き込まれ論」を生んできたからだ。しかし、日米安保条約に対して国連憲章が優越するという「歯止め」を加えると、状況は一変する。日米安保条約の第一条と第七条には、国連憲章の優位性が次のように明記されている。
 日米安保条約第一条「締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
 締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する」
 第七条「この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響も及ぼすものではなく、また、及ぼすものと解釈してはならない」
 そして、これに対応する国連憲章第百三条は「国際連合加盟国のこの憲章に基く義務と他のいずれかの国際協定に基く義務とが抵触するときは、この憲章に基く義務が優先する」として、日米安保条約に対しても国連憲章が優越することを明らかにしているのである。
 日本国民がほとんど忘却していることだが、これと関連して「朝鮮国連軍」の存在がある。
 ここで言う「朝鮮国連軍」は、朝鮮戦争勃発の直後、北朝鮮に対する武力制裁決議の提案が国連安保理でソ連代表欠席のまま議決され、その安保理勧告を受けて西側十六カ国によって創設された。一方、本来の「国連軍」は国連憲章第七章第四十三条の「特別協定」に基づき、国連が利用するために加盟国から提供される軍隊を意味するが、いまだかつて「特別協定」が結ばれたことはない。
 現在、「朝鮮国連軍」を構成しているのはアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの八カ国。韓国の大田に国連軍司令部、日本のキャンプ座間(神奈川県)に国連軍後方司令部が置かれ、在日米軍基地ではキャンプ座間、横田、横須賀、佐世保、沖縄ホワイトビーチ、嘉手納、普天間の七カ所が国連軍基地に指定され、キャンプ座間には三十八人の国連軍要員が勤務している。さらに、形骸化しているとはいえ八カ国の駐在武官が三、四カ月に一回の割合で「合同会議」を開いている。
 日本に展開する在日米軍基地は、このときに吉田茂首相とアチソン国務長官との間で取り交わされた交換公文に基づく地位協定によって、「朝鮮国連軍」の基地としての性格を定められた。この交換公文と地位協定は、六〇年の安保条約改定においても継続されることになり、その旨を定めた交換公文が取り交わされ、現在に至っている。
 この「朝鮮国連軍」は、朝鮮半島から国連に関する軍事組織が撤退する日まで存在し続けることになっている。「国連軍に関する地位協定」の第二十四条、第二十五条には、朝鮮半島から国連軍が撤退しなければ、朝鮮国連軍の基地としての在日米軍基地の性格は解消されないことが明記されているのである。
 当然ながら、米軍が極東の平和と安全のために在日米軍基地を使用するに当たっても、基地や施設の使用を定めた日米安保条約第六条よりも国連憲章が優越することになり、米軍は国連憲章の枠内でしか動けないことになる。
集団的自衛権行使のための歯止め
 以上の条件を遡って整理すると、従来の集団的自衛権の行使を否定した憲法解釈や政府答弁とは異なり、日本が日米安保条約に基づいて行動することは、日本国憲法が認めている国連憲章の枠内である以上、許容されるとする解釈も成り立ち得るのである。
 しかしながら、さきに述べたような外交・安全保障構想を示してアジア諸国の信頼を獲得していない現状では、この解釈を強弁することは逆効果でしかなかろう。日本としては、集団的自衛権を行使するに当たっても一定の歯止めを示す必要がある。
 その場合、国連憲章第五十一条にある「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という条件を厳密に定義したうえで、安保理が機能した時点で集団的自衛権の行使を停止し、派遣された自衛隊に撤収を命じたり、米軍への支援を制限するのである。これが、集団的自衛権の行使に関する「日本モデル」の一案である。
 同じことは、国連平和維持活動(PKO)に関しても言える。
 湾岸戦争直後、「とにかくカンボジアだけは」の掛け声のもと、自衛隊のPKO派遣の議論が始まった。派遣しなければ国際貢献の姿勢を問われかねず、肩身も狭い。一方、周辺アジア諸国の不信の目もある。その結果、歩兵が主力となる平和維持部隊(PKF)について「部隊参加凍結」という便法を採用、規模も「周辺諸国が警戒せず、業務に支障が出ない範囲」という奇妙な論理で二千人規模と決められた。
 だが、国際的に通用する本質的な議論ということになれば、平和主義、国連中心主義という日本の原理原則からPKOをどう考えるべきか、から積み上げるのがスジであろう。当然、国連分担金第二位の責任からもPKOが語られるべきだ。そして、日本がPKOを考えるときの三つの選択肢、すなわち、(1)国連を脱退してPKOへの責任を免れる、(2)世界がPKOに匹敵すると認めるような代替プランを示し、実行する、(3)PKFを含むPKOに一〇〇%関わる、が真剣に議論されなければならない。
 そこにおいては、国連脱退は世界の信頼を礎とする日本の経済立国にとって最悪のシナリオであり、敵対する武装集団の間に割って入るのはPKFしかできないことから、第三の選択肢(PKOフル参加)が残る可能性が大きい。
 ここで必要となるのは、日本国内でしか通用しないPKO論議を国際水準にまで高める作業である。軍事活動そのものであり、武力行使を目的とする平和執行部隊(PEU)や多国籍軍、国連軍は、どんな立場からしても日本国憲法に抵触するが、「軍事組織を使った警察活動」であるPKFは、定義と国民のコンセンサス次第では参加可能だからである。
 この問題は、「軍事組織を使った警察活動」であるPKFまで実施することによって、それ以上の貢献を求める外圧を減らし、武力行使を求められる平和執行部隊、多国籍軍、国連軍に対して、なし崩し的に参加することがないようにするための歯止めとしても重要である。
 このとき、「軍事組織を使った警察活動」としてのPKFと「平和執行部隊以上の軍事活動」の区分については、軍事組織における「矛」と「盾」で説明すると理解しやすいかも知れない。
 アメリカ陸軍や陸上自衛隊の場合、各師団に配属されている歩兵(日本では普通科)連隊は、「矛」に当たる強力な打撃力を増強されて初めて、求められる本格的な武力行使が可能となる。それは、長射程で強力な火力を有する砲兵、戦車、対戦車ヘリなどである。国連の平和維持活動といっても、軍事活動そのものを期待される平和執行部隊以上では、この「矛」の部分が不可欠である。
 これに対して、「軍事組織を使った警察活動」であるPKFの場合、当然ながら「矛」に当たる部隊の配属はない。歩兵部隊が固有に装備する武器だけで活動することになる。それらは、重迫撃砲の最大射程四キロの範囲を出ることはなく、いわば「盾」にあたる武器である。
 このように定義するとき、「矛」を突き出した平和執行部隊以上が武力行使そのものであるのに対し、「盾」しか持たないPKFは警察機動隊のレベルであることは一目瞭然だろう。集団的自衛権の場合と同様、これをPKOにおける「日本モデル」として実行するのである。
 いま、日本に求められているはワールドクラスの巣穴である。巣穴の完成度を、ドメスティックな大きさから国際水準にまで高めることができて初めて、日本という蟹もまたワールドクラスに成長しうるのだと思う。
◇小川和久(おがわ かずひさ)
1945年生まれ。陸上自衛隊航空学校を経て同志社大学神学部中退。
週刊誌記者を経て軍事アナリストとして独立。現在、危機管理総合研究所長。
 
 
 
 
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