1995/11/30 朝日新聞朝刊
新大綱は時代に耐えられるか(社説)
冷戦後の防衛政策の指針として、新たな防衛計画の大綱が閣議で決定された。三木自民党政権が一九七六年に旧大綱を定めてから、実に十九年ぶりの改定である。
ベルリンの壁が崩れて六年がたち、東アジアを含めて国際環境は劇的に変わった。そのなかで、巨大な経済力をもつ日本が自国の安全をどう保とうとするのか。そのことを内外に示す作業としては、遅きに過ぎたといわれても仕方あるまい。
旧大綱と新大綱の決定的な違いは、日米安保体制の役割の重心が、旧大綱の「わが国に対する侵略の未然防止」や「侵略への日米共同対処」から、「わが国周辺地域の平和と安定の維持」と、そのための「米国の関与と米軍の展開を確保する基盤」へと移ったことである。
○「防衛」の意味が変わった
冷戦は終わったが、日本の周囲には朝鮮半島をはじめ日本の安全に影響しかねない不安定要因が残る。地域の安定のためには米国の力が必要で、それを日米両国で支えていく、というのが新大綱の主張だ。
これは、クリントン米政権が日本政府の当局者とともに進めてきた安保体制の「再定義」にそのまま重なる内容である。
いまや、日本の防衛の態勢は、かつてのソ連のような特定の敵の侵略抑止を目的としたものではなく、米国の東アジア戦略を助けること自体に存在理由を探り当てた、といっても過言ではあるまい。
私たちは冷戦後の安保体制の「再定義」について、積極的に東アジアの緊張緩和を促すという観点から見直すよう提言してきた。日米両政府によって「再定義」された安保体制の下に、自衛隊が組み込まれることで生じる問題は明白である。
確かに、新大綱は旧大綱の「基盤的防衛力」の考え方を踏襲した。憲法の下で「平時から必要最小限の防衛力を保有する」という考え方だ。さらに、具体的な規模を示す別表を改定した。
陸上自衛隊の定数が削減され、対潜航空機や要撃戦闘機部隊も一定の縮小が図られた。軍事情勢の変化や財政状況を考えれば当然である。不十分とはいえ、防衛費の削減に結びつけていかなければならない。
しかし、こうした観点だけで新大綱を見ると、木を見て森を見ないことになる。地域紛争に対処するため日米の軍事的協力が強まることは、集団的自衛権の行使を禁じた憲法との間に緊張を生む。ここにこそ新大綱がはらむ基本的な問題がある。
朝鮮民主主義人民共和国の核疑惑をめぐって、昨年春、米政府が有事の自衛隊派遣を求め、防衛庁は憲法をたてにこれを拒否した。だが、自民、新進両党内では、集団的自衛権の行使そのものを認めるべきだという意見が公然と語られている。
○自衛権解釈を堅持せよ
だからこそ村山首相は、集団的自衛権についての憲法解釈をあくまで貫くことを、官房長官談話ではなく新大綱に明記すべきだった。日米の物品役務相互融通協定をはじめ、集団的自衛権にからむ課題が控えているとき、必要なのは政治の明確な意思の表明だったはずだ。
防衛の基本となる文書に、冷戦時代と同様、もっぱら軍事力にかかわる政策指針を盛り込むだけで、安全保障を確実なものにできるだろうか。答えは否である。
日本が非核三原則や武器禁輸原則をより厳格に貫き、さらに紛争の予防や信頼醸成に貢献する決意を明確にすることが、冷戦構造というたがが外れた地域の不安定化を防ぐ。そうした認識をこそ、冷戦後の大綱の原点とすべきだったのではないか。
新大綱は、このような立場を踏まえ、国会が主導権をとって、世論の批判をあおぎつつ完成させるべきだった。新しい時代の日本の安全保障のあり方は、それだけの力を尽くして考えねばならぬことなのだ。その意味で、官僚主導の色濃い新大綱は、政治の怠慢を象徴している。
アジア情勢はこれから大きく動くだろう。米国の軍事的関与も恒久的なものではなかろう。この転換期に、新大綱が長期にわたって有効性を保てるとは思われない。
そのことを念頭に、めざすべき地域の姿と日本の安全保障政策の全体像を描く作業を、いまから始めなければならない。
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