1991/07/27 朝日新聞朝刊
「国民の自衛隊」の条件(社説)
冷戦の終わりとともに、自衛隊は改めてその存在理由を問われるだろう――先見性のある防衛当局者は、早くからそう言い続けてきた。
現にいま、自衛隊のあり方をめぐる論議が活発化している。防衛庁自身が危機感を強めており、高官の1人は「日本への直接侵略は100年の長きにわたってないかもしれない。30年も50年も訓練と演習だけ、という自衛隊で世間に通用するだろうか」と深刻に悩んでいる。
こういう時代に、どうすれば自衛隊を国民に受け入れてもらえるか。今年の『防衛白書』執筆者の頭には、終始この問題が渦巻いていたに違いない。
白書はこれに1つの答えを出している。その方向は別として、問題と正面から取り組もうとする姿勢は評価されていい。
白書が言わんとしていることは、巻末に新しく置かれた「むすび」に要約されている。自衛隊は万一わが国が侵略されたとき実力でこれを排除するために存立する、としたあと次のように言う。
「多くの人材、装備、ノウハウを備えた自衛隊は、わが国社会で他に見られない能力集団であり、国民の財産というべきものである」
では、この「国民の財産」をどう使うのか。白書は続ける。
「わが国では、海外における災害に対する救援や国連の平和維持活動に対する協力など、国際的視野に立った貢献をより一層おこなっていくことが国民的課題となって・・・いる。このような状況の下で、自衛隊がどのような役割を果たしていくべきかは今後、国民全体で考えていかなければならない問題である」
結論こそぼかされているものの、白書が言いたいことは明白だ。ペルシャ湾への掃海部隊派遣で世論が変わったと見る防衛庁は、この際、その追い風に乗って、自衛隊の海外派遣について国民の認知を得たい、ということであろう。
こうして白書は、自衛隊の立脚点を「国際貢献」へ多少ずらすことによって、侵略なき時代の自衛隊の存続・強化を正当化しようとしている。もちろん、ソ連の強大な軍事力への警戒心を解いてはいないが、それだけでは国民の納得が得られなくなったことを、白書は示唆している。
しかし、自衛隊誕生の経緯を考えると、そのスタンスの移動にはそれなりの手続きが必要である。国際貢献ということばに酔って、法的措置をあいまいにしたままだと禍根を残すことになる。
対日侵略が当面考えられない現在、自衛隊の立脚点を多少、それもあいまいな形でずらすことによって乗り切ろうとする白書の考え方に、われわれは批判的である。軍事的脅威が減退あるいは消滅したというなら、それに対応した自衛力を構築することこそ、白書がめざすべき方向である。
今年2月実施の総理府の世論調査で、防衛費の増額に否定的な人が8割を超えた。白書が「国民の自衛隊」をキャッチフレーズにするのなら、この調査結果を無視してはいけない。
巨費を要する装備の近代化を推進すればするほど、防衛予算は増額されていく。これに歯止めをかけるとすれば、装備更新に制約を加えるか、それとも人員削減など別の面で減額をはかるほかなかろう。
米ソ両軍事大国だけではなく、他の先進諸国の多くも、冷戦後の新情勢に応じた軍事態勢をとりつつある。日本だけが例外、というわけにはいかないのである。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|