1990/10/16 朝日新聞朝刊
戦後史問われる国連軍参加(社説)
武力行使の目的や任務を持つ国連軍に自衛隊を参加させよう、という動きが政府・自民党に強まってきた。とくに海部首相が「集団安全保障と集団的自衛権は違う」との言い方で、自衛隊の国連軍参加に含みを残す意向を表明したことにより、その流れは一段と加速されるだろう。
わが国の歴代政府は、武力行使の目的を持って武装した部隊を他国の領土・領海・領空に派遣する「海外派兵」は違憲だとし、国連憲章にもとづく国連軍であっても、目的・任務が武力行使を伴う場合の自衛隊参加は憲法上許されない、との見解をとってきた。
従って、海部政権のもとで自衛隊の国連軍参加の道を開くということは、戦後の日本の規範とされてきた平和憲法についての解釈が大きく変わることを意味する。当然、それはわが国の安全保障政策の変化につながる。自衛隊の任務や性格も大きな転換を余儀なくされるはずである。
憲法と自衛隊の関係については、長いことはげしい論議が続いてきた。その間に政府はなし崩し的に自衛力の増強に努め、今では世界でも有数の「軍事費大国」になった。
安全保障政策をめぐる多くの矛盾をかわすため、政府は時に強引ともいえる憲法解釈を打ちだし、窮地を脱しようとしてきた。それでも「海外派兵」については、自衛のための必要最小限度を超えるものだとして、違憲の認識を崩さなかった。
政府・自民党はいま、この最後の一線というべきものまで取り払おうとしている。われわれは、こういうやり方に反対する。ここで問われているのは海外派兵の是非にとどまらない。戦後の日本人の暮らしを支えてきた憲法のあり方そのものが問われている、ということを銘記したい。
○軍事に限らぬ集団安保
政府・自民党によれば、自衛隊の国連軍参加の根拠は、国連憲章が掲げた「集団安全保障」活動である。集団安全保障は「平和の破壊があった場合に国連加盟国が力をあわせ侵略を鎮圧し、平和回復をめざす制度」であって、憲法が禁じる集団的自衛権とは異なるのだ、と外務省は説明している。
なんとか国連軍への自衛隊参加を実現させたいとする窮余の一策だろうが、これには相当な無理がある。
第1に、なるほど国連の集団安全保障活動は重要であり、日本としても自主的な姿勢でこれに参加し協力するのは当然である。ただ、国連憲章はその活動を幅広くとらえており、侵略に対して直ちに軍事的に「鎮圧」するといった硬直したものではなく、あくまで段階的な措置がうたわれている。集団安全保障イコール軍事ではない。
第2に、政府・自民党は国連軍を自明のものとしているが、国連憲章第7章で予定された本来の国連軍はまだ存在していないのだから、それがどういうものになるか、今はだれにもわからない。にもかかわらず、これまで違憲だといってきた国が率先して参加への道を開くというのは、かえって奇妙な感じを世界に与えよう。
第3に、集団安全保障と集団的自衛権の定義の違いは当然だとしても、自衛隊の国連軍参加について両者はどう違うのか、明確な説明はない。国連憲章において両者は密接な関係を持っているだけに、政府・自民党の見解だけでは納得できないところがある。
○首相の指導力はどこへ
われわれは、国の根幹にかかわる方針が、曲げられていくことに深い憂慮をおぼえる。このような重要な問題が臨時国会開幕時の首相演説では全く触れられず、その直後に突然とびだしてきたことに、国民は戸惑うばかりだ。一国の首相の指導力とはこの程度のものなのだろうか。
今国会では、国連平和協力法案の行方すら不透明なのに、なぜ政府・自民党は「国連軍参加」という難しい問題まで急いで出してきたのか。協力法案を順調に審議するためのクセ球であって、国連軍参加は本心ではないのだ、との見方もある。
しかし、この問題は政治的かけ引きに使うにはあまりに重大だ。日本だけでなくアジア全体の将来にかかわることだという認識で、国会はとりくんでもらいたい。
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