2002/02/28 朝日新聞朝刊
これでは教養が泣く 中教審答申(社説)
「新しい時代における教養教育の在り方」を検討していた文部科学相の諮問機関、中央教育審議会が答申を出した。
若者の教養が低下し、哲学や思想の古典が顧みられなくなったということなら、何も最近の話ではない。このテーマが2年前に諮問されたのは、その前年の中教審答申が、高等教育の教養教育の理念や目的を「自分の知識や人生を社会との関係で位置付けることのできる人材を育てる」と書いたのがきっかけである。
今回の諮問に際し、中曽根弘文文相(当時)は、そうした理念や目的は社会規範も含め、初等中等教育でも生涯学習でも重要だ、と述べた。少年事件の続発で、規範意識を持たせるには早い時期から幅広い人間教育を、との思いもあったのだろう。
答申は、礼儀・作法をはじめ型から入る修養の大切さに触れた。名文や詩歌の暗唱など古典回帰の提案もある。しかし、あまりに間口の広い諮問のためか、全体はあれやこれやの寄せ集めの感が深い。
教養教育の具体策を幼・少年期、青年期、成人期の3段階に分けて列挙している。例えば幼・少年期では、子どもに毎日決まった手伝いをさせて家庭での役割を与え、テレビやゲームに費やす時間を制限する、などの「我が家の決まり」づくりを奨励する必要がある、と指摘した。これは首相の私的諮問機関の教育改革国民会議が提言したことだ。
基礎学力の徹底のための反復練習や宿題、補習、学ぶ進度に応じての発展的な学習の必要も訴えた。「ゆとり教育」を掲げる新指導要領が4月から始まるのを前に、遠山敦子文科相が先月発表したばかりの「学びのすすめ」に通じる。
答申はさらに、全国的な学力調査や教員の勤務評定の工夫なども挙げている。
これでは、文科省などが最近打ち出した施策の総集編だ。一つひとつは悪いことではないにしても、果たして「教養教育」と呼べるのだろうか。
中教審は新しい時代に求められる教養を「自らが今どのような地点に立っているのかを見極め、今後どのような目標に向かって進むべきかを考え、目標の実現のために主体的に行動していく力」だとした。文科省の目指す「生きる力」とも重なる。
この力を育てることに結びつくなら、我が家の決まりだろうが宿題だろうが、何でも教養教育に答申は含めている。教養の大盤振る舞いである。その結果、教養教育と一般の教育との違いが分からなくなってしまった。
教養は決まった学習の献立をこなせば身につくものではあるまい。
文部行政は、条件整備はできても「これが教養だ」と示すことは難しい。教養の共通理解が失われた時代であれば、なおさらだ。中教審に諮問するようなテーマだったのだろうか。これでは教養が泣こう。
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