2000/09/20 朝日新聞朝刊
公共心が育つのですか 奉仕活動(社説)
強制ではない。けれども全員が行うようにするのだという。
森喜朗首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が中間報告に盛ることにした「奉仕活動」についての提言だ。報告案によると、小・中学校で二週間、高校で一カ月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。将来的には、満十八歳の国民すべてに一年間程度の奉仕活動を義務付けることを検討する。
七月の分科会報告は「義務化」を掲げていたが、与党内からも「奉仕を法律で縛るのか」と疑問が出て、表現を弱めたようだ。
だが、「全員が行うようにする」は、実質的な義務化とどう違うのだろうか。
奉仕活動の導入を提唱したのは、委員の一人で作家の曽野綾子さんだった。
曽野さんは『文芸春秋』十月号の座談会で語っている。「国家から、義務教育とか健康保険とか国民年金を受け取る反対給付として、義務としての奉仕活動を行うべきだ」
国家から発想し、個人を国家から恩恵を施される受け身の存在と見なす。そうした考えからの導入だとすれば、「与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で暖かい潮流を作る」(報告案)ことになるだろうか。
公共心を育てるという意味で、対照的な例がある。埼玉県内の私立大学でのことだ。構内のたばこの吸い殻を学生たちが拾い集める。選択科目の実践活動の一環である。
乗り気でなかった学生もいたけれど、活動を終えての感想は「すがすがしい気分」「気分が晴れ晴れ」などというのが多かった。
活動をする前、学生たちはまず自分の日常を振り返り、「小銭が出たら募金箱へ」「倒れていた自転車を起こす」「講義前、黒板消しをクリーナーへ」などの振る舞いを、何げなくやっていたことに気づいた。次に、学内で困った問題だと思うことをそれぞれに出し合った。その結果、キャンパスに散らばるたばこの吸い殻問題を選び、「大きな自分事」(担当講師)として取り組んだ。
同じように公共心について考えているようでも、「公」から出発するのと、「個」から積み上げて「公」に至るのとでは内容が大きく違ってくる。
曽野さんは「教育は必ず強制の要素を含む」ともいう。
大切なのは、活動の自主性が芽生えるのを励ますことではないか。その過程を省いて強制に頼るなら、活動は見てくれを整えるだけの形式主義に陥ってしまう恐れがある。
報告案は十八歳の義務活動の例として、高齢者介護を挙げている。だが、お年寄りは「教材」ではない。渋々来る子に世話されるのは屈辱でしかあるまい。
長野県三水(さみず)村と牟礼村では、中学生の希望者が一人暮らしのお年寄りの家に一泊する。受け入れ先には謝礼として三千円の商品券が贈られる。
「してもらう側」が「してあげる側」として誇りを持てる、そんな関係づくりの視点が国民会議の議論にどれほどあったのだろう。
上から発想した奉仕活動の導入は、やはり考えものである。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|