2000/09/10 朝日新聞朝刊
上滑りの見直し論議 教育基本法(社説)
森喜朗首相の私的諮問機関である教育改革国民会議の中間報告案に、教育基本法改正の検討が盛られるという。
といっても、改正の中身についての委員の考えが一つに収れんしているわけではない。「変える必要はない」との改正否定論もあるし、改正論も方向や濃淡は大きく違う。
「国家や郷土、伝統の尊重を」「家庭の役割の明確化を」と理念の見直しを望む声がある一方、教育改革を実効あるものにするには「基本計画策定の規定こそが必要」との意見も強い。「改革の起爆剤になるなら、改正してもよい」との立場もある。
どこまで議論を詰めているのか、疑問を抱かざるをえない。
基本法は天皇への忠誠を基礎とした戦前の教育勅語に代わる教育理念として、憲法と同じ一九四七年に施行された。憲法の「理想の実現」をめざす教育を説いている。
首相は五月の国民会議で青少年の凶悪犯罪の続発に触れて、「平等が行き過ぎた結果、個性が軽視され、画一化が進んでいるなどの指摘もなされている」とし、「戦後教育のあり方を見つめ直すことが不可欠」と述べた。七月の所信表明演説では、基本法を「抜本的に見直す必要がある」と明言もしている。
しかし、教育現場の困難さが、基本法を見直すことで克服できるのだろうか。むしろ、この法律の精神を軽んじた結果が、現在の混迷を招いてきたのではないか。
基本法は、教育の目的として「個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充(み)ちた」国民の育成を掲げている。
だが、いま、教室に入ってみれば、個人のわずかな違いを標的にする「いじめ」や、ボランティア活動までも評価の対象にしたことによる「いい子競争」が広がっている。
多くの学校で、子供は自分たちのことを自主的に決める機会を持てず、お仕着せの校則に従うことを求められる。そこに本当の公共心は生まれにくい。
「自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努め」るという基本法の方針は、どこに反映されているだろうか。
これまで発表された議事録を見る限り、国民会議は印象論の言いっ放しという感がある。委員は、教師や親、子どもの意見に果たしてどこまで耳を傾け、実態に沿った議論をしているのか、首をかしげる。
基本法が現実の教育現場にどれほど生かされてきたのか、を十分検証しないままに、見直し作業を急ぐのはまことに危うい。
半世紀余り前、教育者や政治家らで構成された首相直轄の「教育刷新委員会」は、教育勅語を批判する委員も擁護する委員も参加して教育基本法の理念をまとめあげた。
教育には個人の尊厳こそ大事だとする立場と、国家や社会への統合を重視する立場から、個と公の新たな道を求めて深く論じ合った討論は、詳細な議事録に残っている。
国民会議の委員には、文字通り国民の代表として、検証と議論を十分に重ねたうえでの歴史に堪える報告をこそ求めたい。
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