1998/06/27 朝日新聞朝刊
子どもたちに釣りざおを 教育過程(社説)
これで落ちこぼれはなくなるのか。記者会見でこう問われた文部省の担当課長は、しばし答えに窮した。
二十一世紀の学校教育の中身となる教育課程の基準案が公表された。会見での質問は、この案に対する父母みんなの気持ちをよく伝えている。
答えがあった。「落ちこぼれの定義にもよるし、なくなるとは断言できないが、個人的にはかなり減ると……」
ここは断言してほしかった。基準案は、もしそのとおりに実現すれば、確かにこの国の教育史を画するものになるだろう。
とはいえ一方で、これが実現できる保証はなく、絵にかいたもちに終わる心配も大いにある。課長が口ごもったのは、じつに正直だったのかもしれない。
二〇〇二年度から、学校の完全週五日制が始まる。それに合わせて教育内容を「厳選」し、三割前後、削減する。
教育の歴史的転換を思わせるのは、全体をつらぬく理念が鮮明だからだ。記憶中心の詰め込みをやめ、みずから学び、考える「生きる力」を養うことを第一とする。そのために「基礎・基本」の学習にしぼり、子どもたちに「ゆとり」をもたせる。
五日制を教育改革のてこに、まず知識偏重の画一的教育からの解放を求めてきた私たちにも、うなずける考え方である。
小学校にもおよんだ「学級崩壊」に象徴される教育のゆがみは、もう対症療法では正せない。この点で、明治以来、戦後も変わることなく統制的に知識注入型教育を求めてきた文部行政は、みずからの責任を問う覚悟を示さなければなるまい。
その姿勢があってこそ、こんどの改革案が五日制へのつじつま合わせにすぎないといった批判に反論できるのではないか。
せっかくの理念が教室で実現するまでには、多くの壁が予想される。これまでの教育課程も改訂のたびに「精選」をうたい、いまの学習指導要領にも「基礎・基本」の用語があふれ、教育解説書には考える力を求めた「新しい学力観」が山盛りだ。
しかし、そのかいなく教育が今日の荒廃に至ったのは、それらが形だけの改革にとどまっていたからにほかならない。
これまでと同じ道を歩まないために、二つのことを注文したい。
一つは、教室の内と外で、「学力」を測る物差しを同じにすることだ。新たに目標とする「みずから学び、考える力」が教室を離れたとたん、記憶の量だけを測るような入試学力の風圧に押しつぶされてしまわないか。その恐れがあるかぎり、父母らは「学力」低下を心配し、塾は栄える。
文部省には、新しい学力評価のあり方と入試方法の転換を併せて示すことで、そうした懸念をぬぐい去る責務がある。また学校運営に父母を加え、新しい教育方針に直接触れてもらえば、長年の不信解消のためにも役立つにちがいない。
もう一つは、教育課程づくりの抜本的な改善だ。「厳選」といっても、現行教科書を広げて、削り落とす項目に線を引くような作業では情けない。研究と実験を重ねた体系的なカリキュラムの裏付けがなければ、りっぱな理念も空論に終わる。
教育課程づくり自体、先生と学校、地域の大学の教育研究者らにゆだね、行政は最小限の支援にとどめるのが望ましい。
大人がとった魚を子どもたちに押し付けるのではなく、釣りざおを持たせて「知」の海に遊ぶ術と喜びを与えたい。
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