1996/08/24 朝日新聞朝刊
教育にもっと自由を(社説)
教育の場にもっと自由の風を、という声がまた高まっている。
学校完全五日制などの議論を続けてきた中央教育審議会では、個性化や多様化といった言葉で、それが語られた。経済界が昨年提唱した教育改革案も、根底にはゆるやかな学校制度を描いている。
行政改革委員会の小委員会が先日発表した「論点公開」には、初めて教育分野が取り上げられた。その焦点は、まさに学校における規制の緩和だ。そこでは、学校選択の弾力化や、教育内容の多様化などが求められている。
中教審の第一次答申を受け、その具体化をはかる教育課程審議会も近く発足する。学習指導要領の改定をへて、二十一世紀の教育の路線が固まっていく。
それなのに、教育改革の論議がそれほど熱を帯びていない。まだ総論段階にとどまっているためでもあろう。具体的な「論点」を提起した行革委が、広く議論しようと呼びかけているのは、もっともだ。
これまでの規制を維持すべきだという文部省などは、すでに論じ尽くされたテーマだとして、その舞台に乗るつもりはないらしい。だが、発表された「論点」には、新しい意味を持つ事例がある。
学校選択の弾力化についていえば、かつての臨教審でも触れているが、いまはいじめや不登校への対応策として改めて注目されている。これは市町村程度の範囲内で、自分の行きたい小・中学校を選ぶことができるようにするというものだ。
そうなれば、これまでの教育の画一性や閉鎖性を打ち破るきっかけにもなる。
選ばれる側の学校は、それぞれに魅力的で多様な教育を用意するのはもちろん、ふだんから地域の父母にその内容をガラス張りにしておかなければいけないからだ。
もうひとつの論点である教育内容の多様化については、行革委はとくに教科書の選び方に注文をつけている。私立学校と同じように、公立の小・中学校でも学校単位で選べるようにすべきだという主張だ。
いまは市郡程度の範囲を一つの区域として同じ教科書を使わなければならないとされている。だが、県内のほぼ全域で同一教科書という、国定ならぬ「県定」の実態がある。教育委員会による選び方が密室作業であることと併せて、画一的、統制的な教育の見本として批判されてきた。
教科書については、検定のありかたに比べ、採択の問題は見過ごされがちだった。それだけに、改めてきちんとした検討がのぞまれる。意欲的な学校で、教師たちが独自に工夫する教育課程に沿って教科書を自分たちの手で選ぶのは当然のことだ。
規制緩和によって、学校間の格差が生まれ、受験教育がさらに過熱する、という反論も予想される。しかし、本来あるべき学校像に立ち返った議論を迫られている中教審のように、旧来の発想を離れなければ教育荒廃への処方は出てこない。
学校の選択や教科書の採択について、自由の幅を広げることは、父母の学校参加の意識を高めるに違いない。
それは、中教審答申も強調する学校・地域・家庭の連携に良い刺激を与えるだろう。家庭と地域の教育力を取り戻すという難しい課題に道を開くかもしれない。
次代の子らの「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する能力」をはぐくみたい。文部省も中教審も、そう言い始めた。しかし例えば、使う教科書を自分の判断で選ぶことも許されない教師たちに、そうした教育を期待するのも妙なものだ。
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