1995/04/26 朝日新聞朝刊
なぜ学校は必要なのだろうか(社説)
文相の諮問機関である中央教育審議会が四年ぶりに、きょう再開される。その結論は、是非はともかく二十一世紀の教育全般の方向を左右することになろう。戦後五十年を区切りとして、明らかに制度疲労をきたしている日本の教育の再生につながるような提言を期待したい。
諮問は、(1)学校週五日制の完全実施をにらんだ学校・地域・家庭の役割分担(2)一人ひとりの能力・適性に応じた教育と学校間の接続(3)国際化、情報化、科学技術の発展など社会変化に対応する教育――の三本柱が予定されている。
これらは正直いって目新しいテーマではない。これまでの中教審や臨教審でもかなり議論され、また答申されながらも実現していない分野もある。だから「なぜ、いまさら」という批判が聞かれるのも無理はない。しかし、教育の病理を取り上げて繰り返し議論することには意味がある。
現状への批判的な検討は、とりわけ中央集権的で密室性の高い教育行政を考えると、国民による欠くことの出来ないチェックの機会だと考える。その意味で、審議会の議論は広く公開されることが望ましい。国会の教育論議が低調になった昨今では、なおのことだ。騒然たる論議となるように、会長の配慮と工夫を求めたい。
個別の課題は、多岐にわたるだろう。学校週五日制にともなって教育内容をどのように精選するか。これは結論を急いで出して、学習指導要領の改定に早く取りかからなければならない。受験過熱の解消や進路の多様化のために、公立の中高一貫教育の採否なども改めて検討されよう。
だが、諮問を貫く問いは、教育の基本的なあり方をどう考えるか、という問題だ。言い換えると「学校とは何か、なぜ必要なのか」という重い課題に、今度の中教審は正面から答えなければならないと思う。
こんな問いに立ち返る必要があるほど、近ごろの学校は変だと多くの人が思っている。いじめ・自殺、不登校、大量中途退学など、学校のゆがみが生み出す病理としかいいようのない状況はいっこうになくならない。むしろ深刻さが内にこもって、対症療法で済む問題ではなくなった。
受験過熱で、学校の塾化も進む。半面、知識や情報の伝達を学校が独占していた時代は去った。生涯学習のなかで、限られた年限の学校の比重が下がるのは避けられない。たとえば、いじめや不登校の出口として、文部省もフリースクールへの「通学」を認めざるをえなくなっている。学校はかつて持っていた理屈抜きの権威を失った。このことを直視したうえで、新しい学校像を探り、打ち立てる必要がある。
教育の日本的特殊性の側面から再検討してみるのも、分かりやすい。北側の廊下に面して長屋のように並ぶ教室で、黒板にむかって受ける一斉・画一的な授業は、明治以来まるで変わっていない。父母と学校を隔てる壁の厚さ、さらに日本人だけを対象とした学校の非国際性。いずれも子どもを忘れた学校像が浮かんでくる。
数々の病理に加え、ようやく完全実施されようとしている学校五日制がいま、戦前から続く効率第一の競争主義、詰め込み主義の教育と学校観に転換を迫っている。
日教組が「参加・提言」路線を徹底し、左右イデオロギーの代理戦争のようだった文部省との対立を解消しようと努力している。文部省も一方の当事者として、この様変わりを好機ととらえ、中教審が過去のいきさつにとらわれることなく自由な議論のできるように舞台を整えてほしい。
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