1994/12/13 朝日新聞朝刊
教育を古い対立から解き放て(社説)
日教組の前委員長が先日、三十余年にわたる教育運動の体験を本にまとめた。そのあとがきが興味深い。
記録を振り返って、こう記す。「七〇年代までに書いたものは、今の情勢から見ると、ずいぶん教条的で一方的なのには自分自身で驚いたり、おかしくなったりして、しみじみと時の流れを感じる」
冷戦の解消や連合の発足という、時代の変化を背景に挙げながらのこの述懐には、本音がにじんでいる。組合員だけでなく、日教組の先生たちをみつめてきた父母の気持ちにも沿ったものだろう。
長年にわたって対立してきた文部省と日教組が、関係改善にむけて話し合いの席に着く意向を見せている。両者の決断が実を結ぶよう期待したい。
戦後教育のあり方をめぐる考え方の溝が深かったとはいえ、なお四十万人を数える教職員の団体と文部省がひざを交えて意見をかわすことがなかったこと自体、異常なことだった。
文部省の方も、政権交代が現実となったいま、これまでのように自民党一党の教育政策に寄り掛かる文教行政では済まされなくなった。政治的な立場から、互いに「敵」として、自己の存在意義を確かめ合うような文部省と日教組の関係は、いや応なく過去のものになろうとしている。話し合いの環境が生まれてきたといえよう。
最近の教育課題をみても、両者の考えはかなり近づいている。たとえば、文部省が来春から月二回休みに踏み切る学校週五日制は、二十年前に日教組が教育改革のひとつとして提起したものだ。ここ数年間、文部省が強調している「新しい学力観」についても、言葉は別として、個性を尊重し自主性を育てたいという趣旨には、日教組も基本的には同じ考えだといってよい。
また、愛知県で起きたいじめ問題の波紋が示すように、教育が抱える積年の病弊は文部省だけの発想では対策に限界がある、と多くの人が感じ取っている。
日教組の21世紀ビジョン委員会は、十月の中間報告で、文部省を「教育改革の社会的パートナー」として位置づけてみせた。そこでは、政治主義的イデオロギーを中心とした対立が教育界にとって「最大の不幸」だったといい、「統制と抵抗」という構図からは、教育荒廃に有効な解決策をもたらさなかった、と述べている。
これは世間のほぼ常識的な見方だろう。両者の関係改善に向けた、これからの話し合いの出発点ともなるのではないか。
その行方は速断できないが、当事者の基本姿勢として、二つ望んでおきたい。
一つは、子どものために、という視点を貫くこと。この当たり前のことを置き去りにしていないか、というのが両者の対立を見る多くの国民の目だったと思う。父母と手を取り合いながら、教育の質を高める教師の知恵と努力が正しく評価されるような教育環境をどうしたらつくれるか。率直かつ柔軟に、「政治」を離れてじっくり話し合ってみることだ。
二つには、妥協のための妥協や、両者の「やみ取引」を思わせるような仕方は許されないということ。長年の対立が解消することによって、子どもたちの「教室」がどのように変わっていくことになるのか、ならないのか。それが父母にわかるような形で協議を積み重ねてほしい。
文部省、自民党、日教組それぞれに、過去のしがらみと思惑があり、内部には協調の動きに反対の立場もある。それを乗り越える時代への洞察力を期待する。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|