1993/01/28 朝日新聞朝刊
脱偏差値は社会全体の課題だ(社説)
偏差値列島が行き着くところまできてしまった。病状は全身に及んでいる。
業者テストの偏差値で進路を輪切りにする、高校入試のあり方を改めよう。文部省の高校教育改革推進会議・入試部会の最終報告書は、そう提言した。遅きに失したとはいえ、文部省がやっと大手術に踏み切ったことを評価したい。
小学生までが遊ぶひまもなく塾通いに追われる現実を見れば、「脱偏差値・個性重視」を目指すべきだとする報告書の基本方針には、おおむね異論はあるまい。
だが、学校現場でどう具体化していくかは、容易ではない。
例えば、中学校から業者テストを追放しても、今度は塾や予備校がかわりにテストをし、偏差値をはじき出すだけだろう。そうしなければ教師は進路指導に困るし、親は不安だからだ。高校の入試や教育内容を多様化すれば、大学受験に的を絞った一部私立高校に生徒が逃げないか……。
問題の背景は複雑だ。高校進学率九五%、大学進学率三八%という急速な高学歴化がある。そして、東大を頂点とする大学のピラミッド構造、それに伴う高校の序列化と、私学の台頭。さらに、根底には明治以来の学歴社会の伝統が潜む。
だが、問題の焦点は絞られている。それは、生徒一人ひとりの個性や創造力を重視した教育に、いかに切り替えるかだ。
入試の多様化には様々な方策が考えられる。学力試験の内容の工夫、学力試験と内申書の比重を変える、推薦入学枠の拡大、面接の重視、受験機会の複数化などを、報告書はあげている。すでに一部の県で先進的に実施されている例もある。
しかし、本当の課題はその先にある。第一に、入試を変えても、入学した高校が従来と同じ画一的な授業内容なら、意味はない。これまでは職業科を中心にコースや選択科目の多様化が進められてきたが、大学進学中心の普通科でどのような多様化が可能であり、有意義なのか。
第二に、その先の大学入試も改革されねば、多様な高校教育を受けた生徒たちの行き場は限られる。新たな選抜方法を試みる大学も増えつつあるが、偏差値重視型のテストによらない合格者の定員枠を設けるといった方法が一般化せねばならない。
そして第三に、企業社会の意識変革こそ不可欠であり、最も重要と言えよう。「偏差値秀才ばかりでは困る」と言いつつ、実際に採用の段階になるとブランド校を指定するような企業が多ければ、最終出口で何も変わらないことになるからだ。
来春から「業者テスト排除、脱偏差値」を迫る以上、これらの一貫した課題も克服していかねばならない。文部省には、戦後の学制改革以来の大変革をも辞さない、という覚悟が必要だろう。
本来「個性重視の教育」は、現場の教師たちが様々な試行錯誤をへて、子供にとって最も望ましい方策を練り上げるべきものだ。それを、文部省が号令をかけて実施を迫るというのは、いかにも日本的な現象といえよう。そこには、偏差値秀才だけでは今後の日本は危うい、という国家や産業界からの要請もうかがえる。
だが一方で、一人の人間の評価を知識の量や記憶力を数値化した物差しだけで決める従来の選抜方法は、公平に見えて実はそうではあるまい。
「偏差値追放」を上からの号令にとどめるのか、現場からの改革にしていくのか。実際に改革をになう各自治体の教委と教師は、それを問われている。
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