1992/09/06 朝日新聞朝刊
ゆとりある学校5日制へ(社説)
日本の子供は学びすぎである。そういう外国からの圧力が高まれば、もっと早く学校週5日制も実施されたかもしれない。
幸か不幸か外圧は「働きすぎ」に向かうばかりだった。均質で高水準の労働力を供給する日本の教育システムは、外圧の標的になることを免れてきた。
今度の土曜日から始まる月1回の学校週5日制を、これまでの教育のありかたに内側から反省を促すきっかけにしたい。土曜日半日、日曜日休みという長く続いた制度がようやく少し変わるのだ。
子供たちにゆとりを、自主性を、が5日制の合言葉である。言葉だけでなく実際にそうする必要がある。
大分県竹田市で開かれていた日教組の定期大会の教育論議の中心も、この5日制だった。5日制を機に大胆な教育改革を、というのが日教組の考えだ。
「私たち教師、そして父母、国民の意識変革をどうするか」「従来の学力観に代わる新しい学力観を」などの意見とともに、現場での問題点もいくつか出された。
休みになる土曜日にやっていた授業をどうするか、である。年間の授業時間数を確保するためのやりくりである。多くの学校が行事を減らすことなどで対応しているが「1日6時間授業がようやく定着してきたのに7時間授業が息を吹き返し始めた」という報告もあった。
日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所からの具体的な提案、たとえば分数の指導を3学年から5学年へ、かけ算を2学年から3学年へ繰り下げるなどの提案もあった。
この問題では、日教組のいうように、文部省は早急に完全5日制への道筋を明らかにすべきだろう。
月1回の土曜休みなら、現行制度内のやりくりでつじつまをあわせることはできるかもしれない。それでも埼玉県の小学校のように、修学旅行中止の動きまで出てくる。月1回の5日制はあくまで通過地点だ。完全5日制へ向けて、教育課程、教育内容の見直しは必至である。
その大まかなプランを明らかにして、国民的論議の対象にすべきだろう。いまは、そのためのいい機会である。段階的実施で摩擦を少なくすることばかりに気を取られないで、ビジョンを示すべきときだ。
今度の土曜日の休みについては、少し心配なことがある。
いわゆる受け皿づくりをめぐっての動きである。博物館を無料にしたり、地域で催しを計画したり、デパートからカラオケ教室まで企画を考える。そのこと自体はよいとしても、子供がそれに引き回されないだろうか。あまりに多忙な休日にならないかと心配する。
国民総ぐるみで子供の休日の過ごし方を考える。あるいは考えようと呼びかける。これが度を越すとこっけいなことになる。パックにゆとりと自主性を詰め込んで、子供の前へ「はいどうぞ」と置くのでは、まさに漫画であろう。
休日は文字通りお休みの日だ。何もしないでいる自由と、勝手に好きなことができる自由のある日である。すみずみまで教育の目が光っていては、だれしも窮屈至極だ。ほどほどが必要である。基本的には子供と家庭に任せるしかない。
それができないとしたら、日本社会そのものにゆとりがないあかしであろう。
子供たちにゆとりを与えるためには、大人の側のゆとりが必要だ。余裕ある目で休日の子供たちを見守ることにしたい。
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