1990/07/02 朝日新聞朝刊
「教科書で」派の先生を(社説)
先生は「教科書を教える」のではいけない。「教科書で教える」べきだ。教育界にはずっと以前から、そういう意見がある。
教科書の内容を丸暗記させるのではなく、教科書を材料として使い、子どもたちが自分自身の力で考えるようになる授業をしてほしい。そんな意味合いなのだろう。
文部省による教科書検定の、ことしの結果が公表された。この機会に、教科書と先生の関係について、あらためて考えてみたい。
全国の先生が集まった最近のある会合で、津田塾大学のダグラス・ラミス教授が、体験をふまえこんな話をした。
「学生たちはもちろん、憲法で言論の自由が保障されていることを知っています。試験に出題すれば、言論の自由はある、と答えます。でも実際には、あなたが考えていることをそのまましゃべってもいいんですよ、ということを教えるのに時間がかかる。卒論のテーマを選ぶときでも、こんなテーマは世間から危険と思われないだろうか、黙っていた方が得だ、などと自粛したりするのです」
授業で、言論の自由がある、と教えるだけでなく、学校そのものを、みんながいいたいことをいう自由な言論の場にすべきではないか、とラミス教授は説く。「学校はそんな場所じゃない、と反論されるかもしれないが、毎日毎日、言論の自由を実践して、はじめて文化としての言論の自由が生まれると思うんです」
自由があると丸暗記しても、実際に自由を行使しなければ何の意味もない。教授のこの指摘は、先生はなにをどう教えるべきかを考えるうえで、示唆に富んでいると思う。
先週開かれた日教組の定期大会では、つぎのような先生の反省の言葉を聞いた。
「小学1年生の父母に、学校が指定したはさみやクレヨンを買うようにとお願いする。すると父母から、幼稚園で使ったものではいけませんか、といった問い合わせがくる。ところが私たち教師は、1年生はとかく、ほかの子どもの持っているものを欲しがるから同じ品にそろえなければ、などと理由をつけて、統一した学用品を強制してしまう。でもよく考えてみると、これは父母の都合や子どもの気持ちを無視した画一化なのではないでしょうか」
学用品にかぎらない。教室を、授業の内容を、単純な1つの色だけに染め上げれば、効率の点ではうまくいく。しかしそれでよいのか、という自省である。このことは「教科書を教える」のか、「教科書で教える」べきなのか、という問題にもつながっていく。
今回の検定の対象となった高校「現代社会」では、とくに「消費税」の記述をめぐって、文部省と教科書執筆者・出版社の間にかなりのやりとりがあった。
注意しなければならないのは、この種の問題には、かならずしも教科書的な「正解」はない、ということではないだろうか。それなのに、検定する側にも受ける側にも、「正解」を求めすぎる傾向があるように思う。
同じことが、学校で教える先生にもいえるのではあるまいか。教科書に記してあることはすべて正しいものとして、子どもたちにもその通り記憶するように求める。そんな先生の存在をしばしば聞かされる。「マルかバツか」だけの二者択一的な発想である。それでは、自分自身の頭で考える子どもたちを育てることはむずかしいだろう。
残念ながら、昔もいまも「教科書を教える」派の先生の方が多数派のようだ。「教科書で」派の先生が優勢に転じたとき、日本の教育のあり方も変わるに違いない。
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