1988/10/28 朝日新聞朝刊
先生よ、本音を語ろう(社説)
教研は、忘れたころにやってくる。それが昨年、ことしの実感である。
東京、ついで札幌に会場を移して開催された、日教組・日高教の教育研究全国集会(教研集会)が終わった。「異例の遅れ」といわれた去年より5カ月、ふだんの年にくらべれば8カ月の遅れだ。
いま教室で起こっていること、これから起こりそうなことについて、悩み、考え、あるいは解決した体験を持ち寄って、先生同士が討議する。そして、それを4月、新学年からの子どもたちとの接触に役立てる。教研の本来の狙いは、そこにあったと思う。だから、開催時期は2月ごろ、と決まっていた。
日教組の福田委員長は「教研は、かけがえのない、国民の財産だと自負している」という。それにしては、粗末に扱うものだ。前回以来の遅れは、組織の内紛、もしくはそれが尾を引いた結果だが、こんなことを繰り返していては、「財産」どころか、教研の存在さえ、国民は忘れてしまうだろう。
ただ、人間も組織も、追い込まれると、やむなく開き直ることがある。その開き直りが、いい結果に結びつく場合もある。少なくとも、つぎのような発言は、過去36回の教研では、あまり聞けなかった。
「社会科などで、先生のいった通りに答える、先生の気にいる答案を書くのは、いいことなのか。私たちは、知らず知らずそうするように強制してきたのではないだろうか」
「教師の意見が、いつも正解とは限らない。いった通りに書くのは、単なる暗記だ。それでは、考える能力は養われない」
「私は体罰教師だった。げんこつで子どもを従わせてきた。しかし最近になってやっと、クラスに40人の子どもがいれば、40通りの性格と考え方、40通りの生活があることがわかってきた」
学校は、よく密室にたとえられる。部屋の中の様子は、子どもを通じて親に伝わってくるようでいて、実はそれほど伝わってこない。そこでは先生がただ1人のおとなであって、批判を許さない絶対の権力者になりがちだからだ。紹介した発言には、その密室を開こうとする努力が感じられる。
校則についても、聞くべき言葉があった。
「あれほど騒がれているのに、教師の側からの反応はきわめて少ない。髪形にしても、学校がそこまでの権限を持っていると思うのは、おごっている証拠だ」
「しかし、生徒の方も、押しつけをおかしいとは思っていない。上からなにかいわれるのに、慣れてしまっている。自分で考えて、賛成とか、いや、とかいえない子どもを、私たちは育てているのではないだろうか」
こうした議論に、一つひとつ結論が出たわけではない。けれども、たがいに「本音」を言い合うことによって、その後の討論が、組合型の絶叫調ではなく、足が地についた内容になっていったのは確かだった。
今回取り上げられた各地からの研究報告は、昨年の都道府県段階の教研集会に提出されたもの。そのまま読み上げただけでは、データが古すぎるという場合も多い。報告者は、そこで「去年はこうでした。しかし、ことしは」と新しい状況を説明することになる。「異例な」このことが、何回か議論を沸き立たせた。次回以降も、異例が続くよう期待したい。
もうひとつ、右翼団体の妨害が、ことしは「自粛」によって、きわめて少なかった。言論の自由、集会の自由は、当然、保障されなければならない。こちらの「異例」も、ずっと続けられるべきである。
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