1987/07/02 朝日新聞朝刊
現代社会をどう学ばせるか(社説)
ある企業の人事担当者から、こんな話を聞いた。大学卒の採用試験に、3人ずつ並べていろいろ質問する方法をとっている。ところが、最初の学生に質問して答えを聞き、2人目に「君の考えは?」と聞くと、「前の人と同じです」という。3人目はというと、これまた「最初の人と同じです」。
こんな場面が、決して例外的ではないのだという。「みんな、いわゆる一流大学の学生なんだが、一体どうなっているのかね」と、その担当者は嘆くことしきりだった。
いま日本の教育は、さまざまな問題を抱えている。だが、一人ひとりの子ども・青年に、主体的に生きる力を獲得させる面の弱さが、最も重大といっていい。学校教育の画一性の指摘も、そこからきている。
みんな同じことしか知らず、考えず、付和雷同するようなことでは、自由社会は成り立たない。経済的にも文化的にも、そして政治的にも活力を失ってしまう。一人ひとりみな違う人間が、それぞれに自分なりの考え、好みを持ち、それを精いっぱいに実現しようと協力したり、競い合ったりするところに、社会の望ましい発展が期待できる。
この点に最も重点を置いた教育改革が急がれるべきである。臨教審が「個性重視の原則」を大きく掲げたのは、その意味で間違っていない。しかし、今度おこなわれた高校の「現代社会」の教科書検定の経過を見ると、あいかわらず過去の学校教育観の流れが、いかに根強いかを痛感させられる。
ある1つの解釈や理解の仕方を固定し、それを覚えこませることで、子どもの力がついたと考える。その絶対真理をまとめた聖典のような書物として、教科書がある。そういう前提で、躍起になっている。とりわけ検定する側に、その観が深い。
「現代社会」などでは、それは違うだろう。ものごとには、常にいろんな見方がありうる。その中で、自分ならどういう立場を選ぶのか。それは、どういう理由・根拠にもとづいてなのか。そうした訓練の機会を豊富にして、思考力、批判力を身につけさせる。その方向にこそ教育の未来がある。
そのためには、教師が頭から教えこむだけの授業だけでなく、生徒同士が自分の意見を出し合い、討論する形式がもっと増やされていい。先の女性民教審の提言もそれをいっているし、臨教審答申にも示唆されている。そうなれば、社会科の教科書は討論を進めるための入り口を示すだけでよくなる。
小学校でも中学校でも、そういう学習に慣れさせるべきである。とかく「発達段階に応じたレベルで」として、大人になるための準備を後へ後へと先送りする傾向が、学校教育には強かった。あげく高校でも、大学でも、大事な力を磨かずじまいに終わっているのが、現実ではないか。
臨教審でも、高校ぐらいにまでなれば、教科書も検定なしの自由発行にすればよい、とする意見があった。学校教育法は、高校教育の目標に「健全な批判力」の養成を掲げている。その「現代社会」の学習で、政治的な問題を扱うのが何か大変なことのような空気があるのはおかしい。卒業して2年たてば、みな有権者になる若者なのである。
彼らが、かつてない国際化時代を生きることも考えると、世界的な視野で考え、どこの国の人にまじっても、堂々と議論に参加できる力を持ってもらわなければならない。そのためには、執筆者側と文部省が、狭い教育観の枠の中で争い続ける教科書検定劇そのものを、より基本的なところで転換させることが必要になってきている。
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