1987/05/24 朝日新聞朝刊
教育改革と「私学」の意味(社説)
複数受験制の導入で、国立大学の自己中心主義的な体質があらわになっている。学校制度発足以来の「官尊民卑」の意識に、いまなお国立大学の先生たちが、いかにどっぷりと浸りつづけているかを見せつけられる思いがする。
もっとも、一般の国民の間にも同様の心理は根強く残っている。どこの大学、どういう学部であるかは問わず、とにかく「国立」に入ることを評価する気分がある。これを背景に、とくに地方の高校のなかには「何人を国立大学に合格させたか」を競う風潮が、尾を引いている。
そして、この意識は大学をめぐってだけ残っているわけではない。高校については、大学にも増して、「公立」を中心に考える意識が広く根を張っている。いわゆる学歴偏重社会の1つの重要な側面が、ここにある。
その学校はどんな教育を授けたか、そこに入学してどんな学習ができたかこそが大事なのに、ただ学校の銘柄だけで評価する。これが学校教育制度を行き詰まらせている。だとすれば、教育改革を考えるにあたっては、中身の問題ぬきで「私立」より「国公立」を上位に置く社会の意識と、その背景にも、メスを入れることが忘れられてはなるまい。
しかし、臨時教育審議会の3回にわたる答申では、必ずしもこの面に対する目配りが十分でなく、とりわけ高校段階での公立と私立の別についての問題意識が乏しい。日本私立中学高校連合会でも、このほど第3次答申が出たのを機会にまとめた見解で、それを指摘している。
臨教審の改革提言の大きな柱は、現在の学校教育がおちいっている画一性、硬直性、閉鎖性を打破すべきだというところにある。そのために、もっと個性的な教育・学習ができるよう、自由・自律の精神にもとづいた柔軟な学校教育に変えていかなければならないと強調している。
現在の学校教育でいえば、枠組みが堅くて融通性に欠ける国公立的なありようから、私立的な方向に、全体を移していくことを意味している。第1次答申で「私立学校の役割が一層重視される必要がある」といい、いまは比率がきわめて少ない私立小中学校の設置を促進するよう求めているのは、そのあらわれといえよう。
大学・短大などの高等教育についても、今度の第3次答申で国公立と私立を1つマナイタに乗せて、これまでの国立中心のあり方に検討を加えている。だが、なぜか高校については、この視点が欠落しているのは、連合会の指摘している通りで、ぜひ最終答申までに議論を深めるべきであろう。
進学率94%に達した高校教育の4分の1強は、私学で行われている。特に都会では、東京が54%を占めて公立より多いのをはじめ、軒並み30%を超える。大学進学率の高さが魅力で受験生が殺到する有名校もあるが、それはごく一部にすぎず、多くは公立とともに後期中等教育を担う学校である。
にもかかわらず、いぜん行政面では「公立上位」の扱いがなされがちである。父母の教育費負担が、平均して公立の約6倍もかかるのも、そのあらわれの1つといえる。しかも地方によって、私立高校がいちだん低く見られるような現実があるとすれば、個性重視の教育改革を進める上で、見過ごすことのできない問題点のはずである。
臨教審にも、そしてそれぞれの地域社会にも、「私学」とりわけ「私立高校」という存在の積極的な意味を、広い視野で考えてみるよう要望したい。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|