1987/04/02 朝日新聞朝刊
また期待裏切った臨教審(社説)
臨時教育審議会の第3次答申が出された。教育改革についての具体的な提案をするのは、これが最後だという。
だが、それにしては、本筋の部分に前向きの意欲を感じさせる要素が乏しいものに終わっている。「近い将来、教育はこんなふうに変わるのだ」という展望を開いてくれる内容になっていない。残念である。
今回扱われた問題には、昨年の2次答申までに意見がまとまらず、先送りのかたちで残っていたものが多い。教科書、通学区域、大学の設置形態、9月入学制、教育費・教育財政など、いずれもこれまでの教育行政の根幹にかかわるような、大きなテーマである。
それだけに、みな意見の対立がつきまとってきた。そして今回の答申でも、結局、思い切った見直しはなされないままで終わっている。基本的には、現在の制度を維持する考え方が、基調になっている印象が強い。
部分的には、改革の提案が盛り込まれていないわけではない。答申に先立って公表された「審議経過の概要」の中で、第1部会が現在の教科書検定制度を、よりゆるやかな認定制度に切り替えることを主張していることが明らかにされて、注目を集めた。しかし、答申では、現在の3段階審査を一本化するという程度の提案にとどまっている。
一見、厳しい修正指示が減るように感じられる制度変更だが、1回の審査で合格・不合格が決まってしまうとなると、発行会社としては初めから安全第一を意識して、自己規制の度合いを深めるだけであろう。教科書を通じて、文部省が教育内容の管理を一手に握ってゆく仕組みそのものは変わらない。
国公私立の3種類に分かれている大学の設置形態は、高等教育がここまで大衆化した現在も適切なのかどうか。この問題も、将来にわたっての検討課題として見送られ、組織や運営の仕方を改善するための提案が中心になった。なかで、大学の閉鎖性の根本にある教員の人事のあり方について、任期制や契約任用制の導入を提唱しているのは目を引く。
実現できれば画期的なことだが、ただ、それは主に若い助手や講師の流動性を保つことに主眼を置いているかにも読み取れる。もしそうなら、力のある教授のボス的な支配をいっそう強めることにもなりかねない。
このように、現行制度の基本維持を前提に据えたために、数の上ではさまざまな提案がなされているにもかかわらず、子どもや青年を苦しめている事態のどこが、どうよくなるのかが、見えてこない。高校入試方法に触れた部分のように、かえって今より悪くなるとしか思えない案まで含まれている。
進学率が94%に達して多様な生徒が入るようになったので、高校の個性化・特色化を進めて、それぞれにふさわしい子を選抜する、というのがその骨子である。学校の個性をまず設定して、それに子どもたちを合わさせる。この「学校の都合」を先に決める発想がある限り、どう選抜の方法をいじろうと、子どもたちの受験苦はなくならない。
しかも、高校入試でも受験機会を複数化するという。大学でそれをやった結果が、どうなったか知らないとでもいうのだろうか。1次、2次答申を通して、臨教審が国民の期待を裏切った最大の点は、受験体制の解消、緩和に直結する改革案を示せなかったことであろう。今回も、それは変わらなかった。
教育費・教育財政の問題も、子を持つ国民にとって切実な関心事である。答申は、家計の教育費負担の軽減についても触れてはいるが、議論の大半は民間資金の導入、国庫負担や受益者負担のあり方の見直しといったところに向けられている。
子を持つ親の実感からすれば、教育費の問題は受験体制の存在と深くかかわっている。国公私立の大学の設置形態も含めて、大衆化の現実に合わせた高等教育の整備なしに、解決しない問題であるのが分かっている。ここでもまた、教育行政、大学関係者の視点に偏った改革論議の感をまぬがれない。
臨教審は、8月の任期切れに向けて、3度の答申を総まとめするかたちの最終答申の作成に入るという。今回をもって具体的提案は終わりなどといわず、最後まで真に効果ある一石を投じる努力を続けるよう求めたい。
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