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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1987/01/11 朝日新聞朝刊
教育改革の原点を忘れまい(社説)
 
 今年は、臨時教育審議会の任期が終わる年である。3、4月ごろには第3次答申が出される予定で、それに向けての審議経過の概要が近く発表される。夏ごろ、改革についての考え方の総まとめを示して3年間の論議に幕を下ろす予定だといわれている。
 臨教審に対する評価は、人によって違うにせよ、この2年余の間、教育改革についての論議を、広い範囲でまきおこす役割を果たしてきた。それがなくなれば、論議は下火にならざるをえないだろう。
 そう考えると、残る8カ月足らずは貴重な時間である。いま教育改革が必要であることは、疑いをいれない事実であり、そのための共通認識の形成を、簡単にあきらめるわけにはいかない。
 
○将来を見すえる発想を
 発足当初に比べ、臨教審自体の論議に熱っぽさが失われている感じがある。それにつれて国民一般の期待も、冷えているという印象が否めない。なぜ、そうなったのか。最後を締めくくるに当たって、もう一度、原点にたちかえって、考えてみたい。
 教育に改革が迫られている理由は2つある。1つは、現在の学校教育を中心とした教育の行き詰まりが明らかになっていること、1つは、日本の社会が、避けようもなく大きく様変わりしようとしていることである。
 そこで、まず行き詰まりの下で苦しんでいる子ども・青年たちを、救い出さなくてはならない。そのために、これまでの教育制度を思い切って見直す必要がある。見直すに当たっては、それらの若い世代が生きることになる将来の社会を前提にした、新しい発想に立つことが欠かせない条件となる。
 つまり、どこまでも子ども・青年の事情に合わせた改革を探るのが、目的である。ところが、臨教審を舞台に展開されてきた議論では、いつのまにか大人社会の都合が幅を利かせ始めた観がある。
 ことごとに「そんな改革をしたら、こんな弊害が出る」「まだ機が熟していない。時期尚早だ」といった声ばかりがあがる。これらを総合すると、「現状のままが、一番よい」といっている感じさえしてくるほどである。あるいは、「改革は必要だ」と認めながら、「やるべきは他の領域であって、自分のところではない」といった論法も目立つ。
 受験体制も含めて、教育制度の現状にかかわって生活している人の数は多い。なんらかの改革が実施されれば、自分たちの暮らしの基盤が崩れる恐れもある。教育関係者は、どうしても既得権の擁護、現状維持に傾く。
 
○受験競争の緩和めざせ
 さらに、一般の大人の気持ちにも、長い歴史を持つ学校中心の教育制度への信頼・愛着が根強くある。学校5日制や9月入学制について世論調査をすると反対の声が多いのも、突き詰めれば、自分たちの知っている学校のあり方が大きく変わることに、理屈抜きで抵抗を感じる心理が働いてはいないか。
 だが、迫られているのは、子ども・青年のための改革だ。大人には都合が悪くても、耐える覚悟が要る。自分たちの経験してきたのとは相当違う制度であっても、時代の条件が変化しつつある以上、勇気をもって受け入れるべきは受け入れなくてはならない。
 では、子ども・青年にとって、いまなされねばならない改革とは、どのようなものであろうか。大きな方向として、2つある。1つは、受験競争の緩和である。受験体制そのものの解消、といっていいかもしれない。
 ほとんど全員が進学できる態勢が整ったにもかかわらず、激しい格差づけのための高校入試が行われている。高卒後の大学進学をめぐる競争が、その背後にある。これが、中学校以下の子どもたちまで点数競争に駆り立てている。学校制度が、教育よりも人間選別のためのものになってしまった。ここに、子どもたちの苦しみの最大の原因がある。
 しかも、高度産業社会の域に達した日本では、職業人として世に出るには、学校卒業の資格が不可欠になりつつある。いまでは高卒は当然視されるようになり、さらに近年では次第に大学・短大卒の肩書がないと、就職がしにくい傾向が現れている。
 この傾向は、脱工業化と呼ばれる産業社会の構造的な大転換に伴って、今後ますます強まると見通されている。いわゆる高学歴化の流れだが、子どもたちの側から見れば、いやおうなく長い学校生活を送らなければ、一人前の社会人として迎えてもらえない世の中になる、ということである。
 
○広げたい大学の定員枠
 だとすれば、大学・短大などの高等教育は一部のエリート・コースの者だけが受ければよい、という長い間の考え方は変えざるをえない。さまざまな能力・タイプの若者に対応して、広く高等教育の機会を与えるように制度を直さなくてはならない。
 根本的には、厳しく上限が抑えられている大学・短大の定員枠を広げる必要があろう。11年前から、専修学校が高等教育機関の一環に位置づけられたが、全体としての進学事情は、いぜんとして激烈な受験競争が緩和されるにはほど遠い。
 臨教審が提起しているように、入試のあり方、受験資格の拡大などで、高等教育への接近の機会を広く開放する措置は、ぜひ必要である。が、受験できても合格できる数が増えないのでは、事態の本質は変わらない。
 びんの口のように最後のところで狭くなっている現在の学校制度を改めること。それが受験体制に塗りつぶされて窒息しかかっている高校以下を、本来の教育の場にするための基本的な手段である。
 しかし、いたずらに進学を保障し、幼少年期から青年期までの長い期間を学校で過ごさせるようにすれば、問題が解決するかといえば、むろん、そんなことはない。学校は、子どもを一般社会から隔離する役割を果たす。学校で過ごす期間が長くなればなるほど、社会に触れる機会が少なくなる。
 教育とは、若い世代が社会人としてひとり立ちして生きてゆく力を獲得するのを、援助する営みである。教室で学べる力は、そうした力のごく一部分に過ぎない。生きた世の中の姿に触れ、さまざまな仕事に打ち込んでいる人々に交わる中で、おのずから学びとるものこそが、本当の力になる。
 ただでさえ、子ども・青年を取り囲む環境から、そうした要素がきわめて乏しくなっている時代である。何らかの宗教やイデオロギーが画一的な世界観を確固として指し示している社会でもない。現代は、青年が大人になるのが実に困難な時代になっている。
 その上、学校で厳しく管理され、受験勉強に埋没させられては、人間的自立は妨げられる一途である。学校生活の長期化が不可避だとすれば、その学校のあり方をこれまでとは違うものに変えることが必要である。
 
○社会に開かれた学校こそ
 一言でいえば、社会に対して閉ざされた、束縛性の強い学校から、開かれた自由度の高い学校にすること。学校の「非学校化」とでもいおうか。これが、改革のめざすべき、もう一つの大きな方向でなくてはならない。例えば、学校5日制、9月入学制にしても、子どもが学校に「閉じ込められる」時間を、いかに少なくするかの観点から、主に考えてみるべきだと思う。
 臨教審のこれまでのさまざまな提言が、とりとめのない印象を与えるのは、それらを貫くこうした改革の方向性が、明確に読み取れないからである。残る期間を有効に生かし、確かな里程標を打ち立てるよう望みたい。


 
 
 
 
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