1986/07/10 朝日新聞朝刊
教科書制度の基本を見直そう(社説)
「日本を守る国民会議」がつくった高校用日本史教科書をめぐって続いていた異例の検定作業に決着がついた。教科書検定審議会が合格の答申を出したあと、さらに文部省が要求した修正を、執筆者側がほぼ飲むことで、最終的に合格となった。
これまでは審議会の答申が事実上の最終結論にされてきた。そのあり方を、踏み越さざるをえなかったのは、中国、韓国からの批判に配慮した中曽根首相からの指示があったためである。教科書の内容にまで、首相から直接の指示が出るなど、まことに異常なできごとといわなくてはならない。
ときの政府の都合では、教育に対しても力で介入してよいのだ、とする姿勢。これは決して繰り返されてはならない性質のものである。問題の教科書については、われわれは編集の意図を疑うものであり、賛成できないことは、すでに述べてきた。しかし、そうであっても、こんどの決着のつけ方もまた今後に問題を残したものだと考える。
4年前、やはり両国をはじめとする近隣諸国から同じような抗議を受け、「政府の責任で是正する」と約束して収拾した。が、手続きとしては、検定審議会にゆだねる形を踏み、政治権力が直接手を下さない、という建前は崩さなかった。こんどのことで、ついにその検定制度の建前も壊れたことになる。
しかし、これを単に中曽根首相個人の政治手法の特異性と見てしまっては、間違いだろう。問題の根は、長い間かけて作りあげられてきた今日の教科書制度そのものの中にあった。その無理が積み重なって、とうとう破綻(はたん)したように思われる。
つまり、簡単にいえば、教科書が「左」に偏向しているとして、それを「右」寄りにする観点から、もっぱら検定制度は強化され、運用されてきた。もともと、きわめて政治的な意図が働いて生まれた仕組みだといっても言い過ぎではないだろう。形式上は、検定審議会という公正な機関にはかることになっている。が、人選の仕方で、おのずから考え方の幅は限定できる。
4年前には、審議会の結論が厳しすぎて問題化した。こんどは逆に、甘すぎたのが原因となった。根っこは、前回も今回も1つなのである。ここを見直すことなしには、おそらく同じような問題は起き続けるに違いない。この機会に、こんどこそ真剣に教科書をめぐる状況を基本から考え直すべきであろう。
それは、あまりにも政治的な観点から扱われ過ぎてきた教科書問題を、本来の教育の観点に戻ってとらえることだと考える。政治的な対立の中では、違いを際立たせようとして極端な議論に分かれがちである。教育をそのような心理で扱うのは適切でない。なるべく国民的な合意に近づける努力の中で、教科書のことも考えなければならない。
そういう基本点に立てば、判断の基準は、これからの時代を生きる若い世代にとって、必要なことは何かにしぼられる。近隣諸国の人々とも、従来とは比べものにならぬくらい交流が多くなる国際化の潮流の中で、極端なナショナリズムがどんなに有害なものになるかは、すぐ分かる。
外国との関係に関する分野だけではない。若い世代を、ある1つの型、1つの考え方に誘導しようとするような教育制度の利用そのものが、もう通用しないことも、先の臨時教育審議会の第2次答申がいう通りである。あまりにも堅い学校教育制度を柔軟なものに改めて行かなければならない時がきている。
教科書制度も、そうした改革の流れの中でとらえ直す必要がある。個々の学校現場の自主性に期待する方向での改革をめざすなら、当然、政治的にではなく、教育的な意味で多様な教科書を、自由に選択できる仕組みに移行させて行くべきであろう。
今回の中国、韓国からの批判に対して「内政干渉だ」と反発する声がある。4年前にも聞かれた。しかし、今回のことは外国から抗議があったから問題になるわけではない。われわれ自身の教育改革の方向を考える上で、真剣に取り組むべき課題そのものである。
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