1986/04/24 朝日新聞朝刊
改革理念の一層の具体化を(社説)
臨時教育審議会が、第2次答申を出した。初めて臨教審の改革構想が、本格的なかたちで示されたといえる。
この答申にいたる考え方は、1月の「審議経過の概要」で明らかにされていた。それを整理して答申にまとめたのだが、この過程で新たに強く打ち出された点のあるのが目を引く。「生涯学習体系への移行を主軸とする教育体系の総合的再編成」を、改革の基本的方向として鮮明にしたことである。
生涯学習体系への移行は、第1次答申では改革にあたっての8つの原則の1つにあげられていたにすぎない。これを、改革全体を包みこむ枠組みにした。「学校教育」だけが教育であるかのように肥大化しているところに、いまの教育の行き詰まりの根があるという認識による。
○生涯教育重視は正しい
学校教育は、もともと家庭教育、社会教育と相互に補いあい、助けあって成り立つ。それが、家庭教育は学校にはいるまで、社会教育は学校を出たあと、というふうに年齢による区分けのように誤解されている。科学技術の発展と、人生80年時代の到来で、学習時期を若いころの一時期に集中させるのは現実的でなくなっているのに、いぜん青少年期の学歴獲得競争ばかりに目を奪われている。
これを改め、子どものときから家庭・学校・社会の幅広い場面で学べる体制をつくらなければならない。同時に学校は、社会に出たあとも自由に利用できる学習の場に再編成する必要がある。小学校から大学院まで、その観点でつくり直す、というのである。
この考え方は、正しいと思う。これまで生涯学習は、社会教育の分野に属するもののように位置づけられてきた。しかし、人間一生の営みの中で「学ぶ」という行為は、生きがいそのものと深く結びついている。生涯学習とは、そういう考え方であり、学校での学びも当然、その一環である。生涯学習の体系の中で学校教育のあり方を見直すのは、それがおちいっている危機的な状態を脱出するためにも、最善の道かと思われる。
改革の理念と、具体的な方策との間に一貫性が欠けていた、これまでの審議の欠陥を克服する上でも、この観点を前面に出したのはよい。初中教育にも、高等教育にも共通する改革の方向性が、より明確になった。
もっとも、初中教育の改革案に、それがどう反映しているかとなると、なおあいまいな印象がぬぐい切れない。言葉では「学校も生涯学習のための機関」といいながら、初中教育段階では「基礎・基本の徹底」「教育の適時性」を柱にするとしている。
○どこが変わる初中教育
しごくもっとものように聞こえるが、考えてみると、いままでの小・中学校も「この学年では、これだけのことは身につけるべきだ」というのが建前であった。つまり基礎・基本を、年齢に見合った適時性の下で教えてきた。そこから学校教育の画一性、硬直性が生まれ、落ちこぼれ、過度の管理主義などにつながった面がある。
学習指導要領も、多様な創意工夫ができるように大綱化するとしている。一方で「教科によっては、基礎・基本にわたる事項をより明確に示すことや、より充実すること」も考えるという。指導要領の法的拘束力はそのままに、よりくわしい内容を、より明確に示すとしたら、これまで以上に画一化、硬直化が進む可能性もあるのではないか。
徳目主義的なにおいのする「徳育の充実」の提唱といい、縛りをかければかけるほど良い人材がつくれるといわんばかりの「教員の資質向上」制度案といい、初中教育についてのくだりには、「上からの教育」を万能視する旧来の発想がつきまとっている。
臨教審発足の当初からの、いわゆる自由化論と反対論の対立が尾を引いている結果だろう。しかし、こんどの答申で見るかぎり、学校教育の自己完結的な考え方からの脱却を説く自由化論側の立論のほうに、より説得力があるように思われる。この答申にもとづいて文部省が改革を手がけるにあたっては、自分たちの都合のよい部分だけ「つまみ食い」することなく、基本的な理念との整合性を保つ努力をすべきであろう。
その点、高等教育の改革提言は、おおむね「生涯学習体系への移行」という方向に沿っている。現在、大学は、社会の側の要請が変わっているにもかかわらず、古い枠組みに立てこもり、教育面でも学術研究面でも中途半端な働きしか果たせなくなっている。
○どうする大学の定員枠
かねての懸案である一般教育の見直しなど教育内容や方法の改革。大学入学資格や編入学、転学・転学部の自由化・弾力化、パートタイム学生のための夜間コース・昼夜開講制の拡充など、学習機会を広げるための改革。みな、その教育面での硬直性を打破する方策として、望ましいことである。
研究面で、大学院の飛躍的充実と改革を訴えているのも、うなずける。わが国の大学院教育が、先進諸国とくらべてひどく見劣りする実情にあるのは、確かだからである。修士課程、博士課程の年限の標準を、専門分野によってはそれぞれ1年、3年にする道も開くとか、社会人も入りやすくするよう条件を柔軟にするなど、従来の形式的権威主義から踏み出そうとする発想は評価できる。
ただ、大学入学資格の幅をいくら広くしても、受け入れ枠が固定されたままでは、全体としての学習機会は増えない。選ばれた者だけに接近可能なエリート教育機関の性格が変わらないのでは、大学改革の契機をつかむのは難しく、学校教育の総体を衰弱させている受験体制の打破にもつながってゆかない。
答申は、大学教育の質にもっぱら関心を示し、量については「いたずらな量的拡大を憂える声は小さくない」と逃げて、みずからの判断は避けている。国際化、情報化、成熟化という社会の未来展望に立った教育体系の構築を強調する以上、ここを素通りしては、しり抜けのそしりをまぬかれないのではないだろうか。財政や、大学の設置形態に踏み込むという第3次答申では、それらとの関連でぜひ検討してもらいたいと思う。
こんどの答申で、いま1つ注目したいのは「教育界の信頼の回復」を強く訴えている点である。戦後教育界の不幸な対立、つまり文部省・自民党と日教組の対立の構図が続くかぎり、国民的合意が困難であるのは間違いない。答申は、「戦後40年を経て、21世紀を15年後に展望するに至った今日、歴史は歴史として、この不幸な対立に思い切った終止符を打たなければならない」といっている。同感である。
○責任論は公平に
解釈には議論の余地はあるにせよ、答申が「あらためて憲法、教育基本法の尊重を強調したい」といい切ったのは、その意味で評価できよう。ただ、その一方に日教組批判と読める文言もあったりするのでは、せっかくの訴えの効果を損なうかもしれない。それをいい出せば、教育の現状をもたらす上での文部省・自民党の文教政策の責任にも目をつぶることはできなくなる。
答申は、そこには一切触れていない。学校や地方教育委員会、国民の意識が中央指向であるために、文部省が教育を統制・管理するのは当然だったかのような口ぶりさえにじませている。そうでないことは明らかであり、かえりみて他をいう響きの残る答申の姿勢は、対立の克服を真に導き出すところまで達していない。今後の審議の中で、さらに真剣に追求してほしい課題である。
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