1986/03/19 朝日新聞朝刊
体罰と暴行の間(社説)
昨年5月、修学旅行先の宿舎で、生徒に殴るけるの体罰を加えて死亡させ、傷害致死の罪に問われていた岐阜県立高校の教諭に18日、厳しい実刑判決が言い渡された。
教師が子どもたちに体罰を加えることは、学校教育法で禁じられている。一定の限度内で許されてよい場合がある、という判例もあることはあるが、殴打するような行為はその限度内には入っていない。ましてや、生徒を死なすほど殴ったこの教諭が責任を問われるのは、法律上当然である。
しかし、これを、特殊な人物が起こした例外的な事件と片付けていいだろうか。いま学校には、そこまで行かないだけで、子どもの体に手をかけることへの心理的な歯止めがなくなりつつあるように見受けられる。
先に発表された文部省の全国調査でも、59年度に体罰問題で懲戒処分・訓告措置などを受けた教師は120人で、前年度まで毎年60人程度だったのに比べ倍増している。しかも、60年度はそれをさらに30%ほど上回るのではないか、と推定させる結果が出ている。もともと表に出にくい性格の事件だけに、この数字の後ろで実際に何ごとが進行しているかを想像するのは容易だろう。
日教組の国民教育研究所がこのほどまとめた教職員の意識調査によると、6割から7割の教師が、体罰には「一時的に抑えることはできても、教育効果は期待できない」「子どもの人権や心を傷つけるから、してはならない」「子どもとの信頼関係を損なう」と、否定的な考えを持っている。にもかかわらず、一方では3割から4割が「指導方法の1つ」であり、とくに「過大校や過大学級では、時としてやむをえない」とも答えている。
法律上はもちろん、教育論としても体罰はよくないという建前は、みな持っている。だが、学校教育の現状、子どもの実態を前にすると、そんな悠長なことばかり言っていられない。体罰がいけないというのなら、それをしなくてすむような環境を教師に与えよ。親が家庭でのしつけを、もっとしっかりやるべきだ。そうした一種の「開き直り」の気分が生まれているとは言えないだろうか。
親の側にも、この豊かな社会の中で、子どもをどうしつけてよいか分からない後ろめたさがあり、いらだちがある。ために、どうか学校でびしびし教育してほしい、といった態度をとる。各種の世論調査で体罰の是非を問うと、「場合によっては、ある程度の体罰は結構だ」とする答えが多数を占める。
その際、親の頭に描かれているのは、子どもの成長を願う教師のやむにやまれぬ「愛のむち」としてのそれだろう。だが現在、学校に広がりつつある体罰には、そのように美化してしまうわけに行かないものが、増えてきているようなのである。
昨年10月、日弁連が人権擁護大会で明らかにした報告書には、各地の体罰の実例が含まれているが、その多くは残虐ないたぶりとしか思えないような行為である。感情的な怒りのはけ口を子どもに求める。あるいは、暴力をふるうことへの恐れの感覚がまひしてしまい、日常的に手にかける。
ここまでくると、もう「体罰」という言葉で呼ぶのさえ不適切であろう。はっきり「暴行」と呼ばなくてはならない。ようやく、体罰のあまりの横行には歯止めをかけなければ、という機運がきざしている。しかし、いぜんとして「体罰」という言葉に、教育的意味のベールをかぶせる傾向は根強い。
それが、密室の中で強者が弱者に対して加える行為であることを頭に置いて、親も教師も、あらためてこの問題を考えてみたい。
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