1986/01/23 朝日新聞朝刊
子どもの現実に立つ教育論を(社説)
大阪で開かれた日教組の教育研究集会は、今回、いじめ問題を集中的に論議する特別分科会を設けた。子どもがみずから命を絶つところまで追い込まれている状況が、あちらでもこちらでも生まれている。
一体、これは何なのか。親はもちろん、多くの大人が思いまどっている。日々、子どもたちと接している現場教師の話し合いも、やはり苦渋と迷いに満ちていた。これが正しい解答だと明確にいえるようなものは出なかった。しかし、この問題を考える上での大事な視点が、いくつか浮かび上がったのは確かである。
その第1は、いまの子どもたちの教師に対する不信感の深さである。自分の担任のクラスで進行しているいじめが、なかなか分からない。子どもは、先生や親の目には逆に仲良しに見えるような細工までする。
「いじめを、こうして克服した」という報告に、「どうやって、子どもの信頼をかちえることができたのか。そこが知りたい」と、詰問に近いような問いかけが浴びせられたのも、多くの教師がその壁の厚さに悩んでいる表れだったろう。
これに対する答えはそれぞれ違ったが、一言でいえば「子どもたちは必死に教師を見ている。本当に自分たちの側に立ってくれる人だと見きわめたとき、はじめて心を開く」ということのように思われた。例えば、体罰をやめようと職員会議で訴えた、どんな場合でも「教室から出て行け」とだけはいわなかった、といった教師の行動をじっと観察した上で、子どもは態度を変えたという。
もちろん、いかに努力しても、教師にできることには限界がある。子どもの生活には大人が介入してはいけない領域もある。いじめの問題でも、真の解決は子ども自身の力で実現させる方向を見失ってはならないのではないか。討議から導かれた第2の点である。
傍観者の立場の子らも含めて、子ども集団全体がかかわっている問題である以上、解決も全体によってはからせる必要がある。その観点から、クラス討議を積み上げ、生徒総会にまで持ち込む過程を、忍耐強く助けた報告には説得力があった。
つまり、ただ現象としての「いじめ」をなくしただけでは解決にはならない、ということである。分科会では、学校で行った実態調査の結果がいくつも報告されたが、それらによると、多くの子どもたちは、いじめがいいことだと思っているわけではない。問われれば「悪いことだ」と答えている。にもかかわらず、いじめずにはいられない。
「いらいらするから」「何となく、面白半分に」など、言葉として表現される動機はとりとめがない。が、いじめる側の心に一歩踏み込んでみると、そこには持って行き場のない怒り、不安が渦巻いている。
自分たちの目指すべきは、頭ごなしに、いじめをやめさせることではなく、子どもが背負わされているものの重さを的確につかみ、そこから抜け出せるよう助けてやることではないか。そう問いかける発言には、現場の実感がこもっていた。
日教組には主流派と反主流派のイデオロギー対立があり、教育実践のあり方をめぐっても、それが微妙に顔を出す。しかし、この分科会の討議では、そうした違いが感じられなかった。子どもの現実に真剣に立ち向かう姿勢を貫けば、おのずと大人同士の対立は二の次になることを示した、といえよう。
臨教審の審議も含めて、大人が頭だけで考えた議論に走ることの誤りを、あらためて感じさせられる。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|