1985/12/04 朝日新聞朝刊
教育改革に対決はいらぬ(社説)
日教組が全国から教師・父母1万2000人を東京に集めて「わたしたちの求める教育改革宣言集会」を開いた。そして、臨時教育審議会による上からの改革案づくりに対し、子ども・父母・国民の側に立つ下からの改革運動を進める方針を、あらためて打ち出した。
2月から独自の教育改革研究委員会を設けて具体的な案を練ってきた日教組は、10月末に第1次報告をまとめ、提言として公表している。今回は、これを広く社会にアピールするための集会であった。
日教組の提言には、中長期的に取り組もうとする改革のほかに、「いま、とくになにを改めるか」と題した緊急提言が含まれている。いじめ・体罰問題への対応、教員の養成・採用・研修のあり方などについての見解が、その柱になっている。
いじめの問題では、先頭に立って克服に努力すべきは自分たち教師であると述べ、体罰はいっさい認められないという立場を明らかにしている。教員の養成などでは、閉鎖的な締めつけ制度への傾斜に反対し、逆に採用の仕組みや内容の公開を求めている。
いじめの問題が深刻な様相をあらわにしてくるにつれて、学校や教師側の対応のにぶさに批判が強まっている。そんな空気の中で、臨教審では「教員の資質向上こそが、教育をよくする決め手」という議論が勢いを増しつつある。そこから、教職適性審議会の新設といった案も持ち出されている。
日教組としては、こうした臨教審主導の方向づけに対抗して、対案を示すのに懸命になっている格好である。たしかに、責任をもっぱら教師に押しつける形での制度強化ばかりを持ち出す臨教審の議論には、単純化が過ぎるきらいがある。日教組が危機感を抱くのも無理からぬところ、といえる。
だが、その結果として、こんどの集会での宣言もそうだが、臨教審への対決姿勢がいちだんと鮮明になり、両者の間にいっさい対話が成り立たなくなる気配が強まっている。これは、残念なことである。
臨教審の中にも、それなりに多様な考え方が存在しているように見える。日教組の改革提言から、くみとるべきをくみとる余地がないとは思えない。基本的な意見の違いは残るにせよ、いままさに被害者の立場で苦しんでいる子どもの身になるならば、お定まりの対決姿勢に安住することは許されまい。
日教組の集会で、高校生を代表して発言した千葉県の男子生徒は、いわゆる管理教育への疑問を語り、こう訴えた。「どうか、こういう学校を改めて下さい。日教組でも、文部省でも、だれでもいいですから」と。この悲痛な声を、大人はしっかりと受け止めなければならない、と考える。
そして、この高校生は、もう1つの重い問いかけをしている。「いまの学校は、学校にいる間だけおとなしくしていればいい、卒業したら、どうなっても構わない、という教育をしています。大事なのは、学校を出たあと、どういう生き方ができるかではないでしょうか」という疑問である。
現在の教育改革論議は、どうしても「学校」を立て直せば万事片づく、という方向に流れやすい。臨教審についても、学校教育の専門家集団である日教組についても、その傾向がないとはいえない。
だが、大切なのは子どもであって、学校ではない。学校制度のあり方が、問題の大きな部分であるのはもちろんだが、どこまでも出発点は子どもである。大人対大人でなく、大人対子どもの見地に戻っての、謙虚な改革論議を進めるよう呼びかけたい。
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