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1985/09/11 朝日新聞朝刊
教育の中身をどう決めるか(社説)
文部省が教育課程審議会を発足させ、幼稚園から高校に及ぶ学校教育の教育内容の見直し作業を始めた。3年後に答申を受け、それにもとづいて学習指導要領と教科書を全面改定し、65年からの幼稚園を手はじめに順次新しい内容の教育を進める予定という。
教育改革というと、とかく制度面の見直しに目が行きがちだが、教育内容をどうするかの問題は、それに劣らず重要である。車の両輪の関係といっていいかもしれない。
臨時教育審議会による教育全般の根本的見直しが進められているとき、これと並行して教育課程審で教育内容の改革の検討も進めようとするのは当然、といっていえなくはない。文相も今回の諮問にあたって、臨教審の第1次答申および今後の答申を踏まえて審議するように、と断っている。
しかし、理屈に合っているようでいて、合わないところもある。臨教審は、制度はもちろん教育内容も含めて総合的に改革の方向を探ることになっているからだ。6月末の第1次答申は、審議をつづける上での主要課題の1つとして「教育内容、方法の基本的在り方(学習指導要領、教科書を含む)について検討する」と明記している。
さらに教育行政の見直しも必要だとの立場を打ち出し、「義務教育、教科書検定、学習指導要領、学校設置基準などにかかわる許認可や規制について、文部省の指導、助言など実態面を含め、広く見直す」とも述べている。こんど文部省が着手したような、教育内容の改定の進め方自体を、このままでいいかどうか考え直す、といっている。
戦後の教育改革で、国の強力な教育統制への反省から、教育内容の枠組みは地方教育委員会が自主性をもって決め、実際にどう教えるかは現場の学校で先生たちが工夫しあってゆくことになった。学習指導要領は、そのための手引きとして示されたものだった。
それが33年の改定から、全国どこの学校でも必ずその通りに教えなければならないものとして、文部省から告示され始めた。それに沿って、教科書の検定も強められた。一言でいえば、教育内容はきわめて細かいところまで文部省が一手に決めて、強制するようになって今日に及んでいる。
学校がうまく機能を果たせなくなり、落ちこぼれ、非行、登校拒否、高校中退など、これまでのやり方では対応できない危機状態が生まれ、根本から考え直してみるほかなくなった。そのなかで、学校教育の画一化、硬直化が問題点として浮かび上がっている。
文部省があまりにも教育内容を統制し、それを教師に、そして子どもたちに押しつけすぎているのではないか、という疑問が出ている。臨教審答申が、学習指導要領にかかわる規制見直しに言及したのも、そうした問題意識に立ってのことと見てよい。
だが、その見直しの審議がまだこれからというときに、さっさと文部省は従来通りのやり方で教育内容の全面改定にとりかかった。前回の改定から12年たったので、時代の変化に合わせる必要があるという。それを否定しようとは思わないが、ことの運び方にどこか強引さが感じられる。
もともと文部省は、臨教審の設置には反対だった。教育のことは、どこまでも自分たちの手で、という意識がうかがえた。臨教審の様子から見て、もう大したことはできそうもないと判断して、みずからの路線で従来通り突き進むことに踏み切ったのだろうか。
新審議会を構成する委員各氏に、この状況を視野に入れた、厚みのある論議を期待したいと思う。
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