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1985/06/02 朝日新聞朝刊
教育改革と学歴社会(社説)
臨時教育審議会で、いまの日本を「学歴社会」と見るかどうかをめぐって、議論が起きている。先に公表された「審議経過の概要」のなかで、第2部会が「諸外国に比べれば、わが国は学歴社会とは認めがたい状況にある」と結論づけたのが発端である。
総会で、他の部会の委員たちから激しい反発を受け、第2部会でも再検討することになったという。世論も、概してこの結論には批判的だったから、表現の仕方を含めて、もう一度練り直す必要はあるだろう。
しかし、第2部会の見解を読んでみると、それほど間違ったことが述べられているわけではない。かつて学歴は、採用、昇進、賃金などに決定的な差をつけるものとして働いた。いまでは、そうした職業生活の面に関する限り、学歴の役割は小さくなっている。
にもかかわらず、いぜんとして激しい学歴獲得競争が存在し、それは社会的威信を示す尺度として意識されつづけている。簡単にいえば、こう現状分析しているのであって、学歴がいっさい無意味になったなどと主張しているのではない。
そして、この視点は、教育改革の方向を考えるうえで、重要である。子どもや若い人たちの強制されている勉強の目的が、ひたすら序列争いだけに絞られてゆく。かれらが大人になって生きる社会の現実と、かけ離れた育ち方をすることになってしまう。
そんなことにしては、いけない。若い世代が、本当に大事なものを身につけてゆけるような、教育の仕組みを作らなければならない。教育改革が求められている大きな背景の1つは、まさにここにある。
だとすれば、ひとくちに学歴社会といっても、その中身が変わってきている事実は事実として認めた上で、対応を考えるべきであろう。これまで教育改革の議論は、「学歴社会がなくならない限り、どうしようもない」というところに落ち着く場合が多かった。
その口実のもとに、教育制度の側でなすべき改革の努力を、怠ってきた面もないとはいえない。たとえば、いまも企業が学生を採用するときに「大学で何を学んだか」を問わず、学校の名前だけをスクリーニング(ふるい分け)に利用する傾向は根強い。これを大学人は、どこまで自分たちの存在意義にかかわる問題として意識してきただろうか。
入学試験の点数が、そのまま人間の能力のすべてを表すもののように扱われるのを、見過ごしてきた。困難な道ではあっても、入試や教育体制の思い切った改革など、抵抗のすべはなかったわけではない。
それがなされず、大学から高校へ、さらには中学以下へと、学校教育の全体が点数至上主義の上に安住して、学歴社会を逆に補強してきたといえなくもない。国民の学校格差意識にしても、就職にあたっての得失などと関係なく、学校それ自体の権威主義で増幅されている面があるように見える。
学歴社会と呼ぶべき現実があることは、だれも否定できない。しかし、それも経済社会の変化につれて様相を改めてきている。叙述がやや楽観的に過ぎたきらいはあるが、臨教審第2部会は、そうした社会の変化と教育の現状との間のズレに注目することを求めている。そこを読みたい。
古い時代の体験にもとづく感情的反発や、責任回避のための反対に走ることなく、冷静に論議してもらいたいと思う。総じて、子どもたちの生きている現実の急速な変化に、教育の側があまりにも鈍感でありつづけた。そこに今日の問題の根があることを、忘れてはならない。
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