1985/03/25 朝日新聞朝刊
教育を曲げる取りつくろい(社説)
埼玉県浦和市の中学校で、先生が三年生全員の内申書の原簿を、教室に置き忘れた。それを見た生徒たちが、自分のもらった通知表と違う点数がつけられているのを見つけ、学校に抗議したが、納得できる説明が聞けなかった。このため一部の生徒は、その後の授業や試験をボイコットしたまま卒業した、という事件が明るみに出た。
中学卒業生のほとんどが高校に進むようになったいま、中学校の先生の最大の仕事は、どうやって浪人を出さず、希望者全員をうまく高校に送りこむか、になっている。
私立高校の比重の大きい都市部の場合、公立と私立の選抜基準に差があるので、内申点を調整すれば合格させてやれる率も高くなる。極端なことはできないにしても、ある程度の細工はされていると見ていいだろう。
中学校側にしてみれば、それは生徒たちへの愛情からだ、といいたいに違いない。だが、当事者の生徒が自分の目でそれを見たとき、不信感を抱くのも、また当然と思える。千葉県松戸市の中学校で、公立高校へ入学願書を持っていった先生が、一通出し忘れてきたため、その生徒は受験できず、結局、私立へ進んだという事件があった。
願書の提出まで、なぜ先生がしなくてはならないのか、という声が聞かれたが、一つには、この内申書の問題がからんでいよう。生徒本人に任せて、その内容を見られるようなことがあっては、との懸念がある。
先生たちの方は「生徒たちのため、これしかない」と信じてやっているのに、生徒や親の方は不当な介入と感じ、自由な選択への妨害と感じる。やはり今年、埼玉県狭山市の中学校で表面化した進路指導の「行き過ぎ」事件は、この不幸な関係を端的に示した。
仲間同士で足を引っぱり合わないために、志望校は全員が二校までと決めていた。ところが、抜け駆けと思われるようなやり方で私立高に合格した生徒が出た。そこで、その高校に対して、中学側が合格取り消しを求めた、というのである。
「生徒全体」を考える先生の立場と、「自分」そして「わが子」を中心に考える生徒と親の立場は、本来、どちらか一方だけが全面的に正しく、他方は完全に間違いという対立関係にはない。にもかかわらず、両者の対立は深刻さを増しており、このように何かのきっかけで激しいぶつかり合いにまで発展してしまう。
高校進学が、すなわち子どもの序列づけになり果ててしまっている教育制度の構造のためである。だが、ともに被害者であり、この構造そのものの改革を求めて力を合わせるべき先生と親たちが、そうはしない。
振り分けの技巧を精密に磨きあげる努力にのみ埋没し、視野の狭い教育愛や信念におちいってゆく先生たち。目の前のことだけに狂奔して学校のいい分に耳をかそうとせず、かえって子どもを追いつめる親たち。
この悲劇的な図式を、一気に塗り替えられる方法があるとは、もちろん思えない。しかし、いろいろな事件の形をとって矛盾が噴き出すたびに痛感されるのは、学校がその場しのぎの対応はすべきでない、ということである。ここにあげた一連の出来事をめぐっても、そうした取りつくろいや、官僚主義的な姿勢が先に立った印象がある。
何が問題なのかを、せめてそのつど深く話し合い、認識を共有するよう努力する。その積み重ねなしに、真に子どもの側に立つ教育改革は生まれない。中学校が生徒への愛情をいうなら、毎年、顔ぶれの変わる親たちに向けて根気よくその努力をしてほしい。
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