1985/02/07 朝日新聞朝刊
教育自由化の青写真を示せ(社説)
「教育の自由化」が、臨時教育審議会の論議の焦点になってきた観がある。だが、具体的な制度や仕組みの細かいところまで示しての主張になっているとはいえない。ために、自由化すると、実際にどんな状態になるのか、だれもが正確にはつかみかねている。
いま分かっているのは、小中学校の設立認可をゆるやかにし、通学区域も限定せずに、親や子どもの側が選べるようにするらしい、といったところである。学習指導の内容、教科書の選定も、学校の考えで自由にできるのかどうかは、いまひとつ明確に主張されていないように見える。
この程度の手がかりでは、どう判断していいのか迷ってしまう。これが、多くの国民の気持ちではないだろうか。小中学校を自由化した場合の高校・大学とのつながり方や、公立でない学校を選んだときの費用負担のあり方など、だれもがすぐ心配になる切実な問題点への説明も欠けている。
なかば観念論のまま、自由化を唱える人たちは、教育改革の成否はこの一点に集約されるかのように議論を進め、文部省をはじめ、日教組を含む教育界の人たちは、逆に自由化という言葉を用いるだけでも大混乱のもとになるかのように反対している。教育の改革を求める多くの国民の期待にこたえた審議の展開とは、いえないように思う。
自由化の提案そのものは、新鮮で魅力的である。学校教育の制度が、いまでは子どもに苦役を科す仕組みに近くなっている。子どもの側の事情が変わっているのに、制度のほうはあまりにも強固になり、硬直しているからである。これを改めるには、もっとゆるやかな仕組みにするしかない。
自由化という言葉のなかに、そうした方向への可能性を感じとって、漠然とではあるが、希望を託しはじめている親は少なくないと思える。これに対して、頭から否定的な態度をとるのは、どんなものか。
例えば、文部省が臨教審でおこなった反論は、一気にひっくり返すような改革は子どもを犠牲にするので、徐々に弾力化、多様化してゆくべきだ、という。しかし、どのような方法で、どのような計画で、それが進められるのかは分からない。
自由化論の新鮮さは、具体性は不十分にせよ、それが一つの方法論になっていることからもきている。弾力化、多様化は、文部省がこれまでもいってきたが、何か効果が現れて、子どもや親の苦しみを着実に和らげているという実感はない。
そのことへの不満、いらだちの存在を軽視して、臨教審内部の自由化論にだけ立ち向かっても、支持は得られまい。教育関係者が自分たちの既得権益を守るのに躍起になっているとさえ、国民の目には映りかねない。
一方、魅力は感じつつも、自由化論を唱える側に対する警戒感も、根深く存在している。戦後の総決算を唱える中曽根首相に近い人たち、そして経済界の人たちが、もっぱら熱心であることによる。
これまで、高度経済成長の路線のなかで、文部省の進める施策を支持し、応援してきた姿勢が一変したのは、なぜなのか。産業構造の変化に対応させることのみに急で、子どもの側に立つ視点は二の次なのではないか。行財政改革の延長線上で、安上がりの教育制度を狙っているのではないのか、という疑念である。
抽象的な言葉だけの議論でなく、国民によく分かる具体的な青写真のかたちで、自由化するとどうなるのかを示すこと。さしあたって、その作業を臨教審に求めたいと考える。
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