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私はこう考える【憲法改正について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2003/10/22 SAPIO
まさに「なんでもアリ」の「解釈憲法」が蔓延る「改憲論争」60年史
八木秀次(やぎ ひでつぐ)(高崎経済大学助教授)
 
戦後約60年にわたり1字の訂正も行なわれていない日本国憲法だが、改憲論議はなにもこの数年で起きたものではない。じつは制定直後から改憲の動きはあり、しかも当初の提唱者は社会党・共産党といった「護憲」側だった。提案、反発、頓挫を繰り返し、結果として憲法そのものを形骸化してきた改憲論議の戦後史を、憲法学者の八木秀次・高崎経済大学助教授に聞いた。
 
戦後最初の「改憲」主張はいまの「護憲」政党
 
 ご存じのように日本国憲法は1946年に制定されて以来、1度も改正されることなく現在に至っている。1国の憲法が60年近く1度の改正もないことは、世界的に見ても特殊だ。
 国内ではいまだに新憲法と呼ばれているが、駒沢大学の西修教授の調査によると、日本国憲法は世界の憲法の中でも古いほうから数えて14番目で、しかもそれ以前に制定された各国の憲法は、すべて改正されている。
 例えば、日本と同様に第2次世界大戦の敗戦国だったイタリアの憲法は、47年に制定されてから01年までに合計12回改正されている。またドイツの事実上の憲法であるドイツ連邦共和国基本法は、49年の制定以来、実に51回も改正されている。
 これまでに憲法改正をめぐる議論は繰り返し行なわれてきたが、なぜ、どのようにしてそれらは頓挫してきたのか。日本の改憲論争史を振り返ってみよう。
 実は憲法が制定されて間もない時期に、憲法改正論議は既に始まっていた。しかも、意外に思われるかもしれないが、最初に憲法改正を提唱したのは、今日では護憲政党とされる社民党の前身、日本社会党だった。
 日本国憲法には、GHQの憲法草案が帝国議会で審議される過程で、社会党の意見が相当に取り入れられている。例えば25条の生存権、27条の勤労の権利および義務は、ソ連のスターリン憲法をモデルにした極めて社会主義的な色彩の濃い規定である。西側の憲法で、これほど社会主義的な要素を取り入れた内容のものは他にない。その要因のひとつには、GHQの民政局にニューディーラー左派と呼ばれる社会主義に共鳴する人々が集まっていたことが挙げられる。
 それでも社会党は、まだ社会主義の要素が不足しているという理由で憲法改正を主張、46年から47年にかけて憲法改正を唱えた。例えば当時社会党の執行常任委員だった原彪(ひょう)議員は、46年11月6日付『社会新聞』に「近い将来、(憲法を改正して)社会主義的理想を実現しなければならない」と書いている。
 日本共産党は日本国憲法が制定される前の46年6月、いち早く日本人民共和国憲法草案を発表。その内容は、人民主権を標榜し天皇制を廃止するということだった。共産党はその憲法案をいまだに堅持し続けている。共産党は9条にも反対していた。
 
「改憲」の提案をするだけで大臣が罷免に
 
 ところが、49年頃から朝鮮半島情勢がキナ臭くなり始め、いわゆる冷戦構造ができあがると、社会党や共産党の憲法改正の主張は影をひそめるようになる。冷戦構造の下、西側か東側かどちらかの陣営につかざるをえない状況のなかで、あえて9条を「非武装中立」ととらえる方が、事実上、ソ連を始めとする周辺の社会主義国との関係を良好にするために利があると考えられるようになったのだ。
 その一方で、米国側からは日本に再軍備を求める動きが出始めてくる。そもそも憲法第9条は、日本を再び米国や世界の「脅威」とさせないことを目的としていた。ところが、朝鮮半島情勢が切迫するにつれ、日本を反共防波堤にする必要が生じてきたからである。そして50年6月の朝鮮戦争勃発を機に、同年8月に警察予備隊が設置され、54年には自衛隊と改称された。
 53年11月にはニクソン副大統領が「米国は46年に誤りを犯した」と発言、事実上、米国側が憲法改正のゴーサインを出すことになる。
 こうして54年12月に発足した鳩山一郎内閣の下で、憲法改正は具体的に政治日程の中に組み入れられることになった。鳩山は、自ら率いる民主党の政策大綱に「憲法の再検討」を掲げ、「占領政策是非の手始めとして憲法の改正が必要であり、ことに第9条の改正は必要である」と明言していた。しかし、55年1月の衆議院選挙、翌年7月の参院選と2度の選挙で改正に必要な3分の2の議席を得ることはできなかった。
 しかし、憲法改正が政治日程にのったことは、政界を大きく揺り動かす結果となった。憲法改正を阻止するために3分の1以上の議席を確保しようと、右派と左派に分かれていた社会党が統一。この動きに呼応して、保守側も自由党と民主党が合併して自由民主党が成立。いわゆる55年体制ができあがった。
 このとき自民党は、「現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即して改廃する」ことを政策綱領とした。つまり自主憲法制定こそが、本来、自民党立党の目的なのである。
 56年1月、自民党は「自由民主党憲法調査会」を発足、鳩山首相も施政方針演説で「56年こそ憲法改正の年」と発言した。改正の焦点は、そもそもこの憲法が占領下に押しつけられたものであること、前文が翻訳調で他力本願的であること、天皇の対外的代表性が明らかでないこと、そして何より9条を改正し、自衛のための最少限度の軍備を保持できるようにすることであった。次いで同年2月、自民党は憲法改正に向けて憲法調査会法案を国会に提出、6月に公布・施行された。
 それに対して、社会党は憲法擁護国民連合(護憲連合)を通じて全国で護憲運動を展開。憲法改正に反対の立場を取る憲法学者らも後に憲法問題研究会を組織し反対運動を展開した。
 57年8月には岸信介内閣のもとに憲法調査会が設置されたが、社会党が参加を拒否するなど激しく抵抗し、調査会内部でも対立があって結局、改正案の提出には至らなかった。そして、池田勇人(はやと)内閣の64年7月、最終報告書が提出されるに止まってしまった。
 看過してはならないのは、7年間に及ぶ憲法調査会の審議から、自衛隊は合憲であり、改憲は次世代に任せるべきとの解釈改憲の立場が生まれたことだ。これによって憲法改正は遠のき、字面と大きな齟齬(そご)を生じさせながら、解釈運用でしのぐというごまかしが現在まで続くことになってしまった。
 国民の関心が経済成長に移ったこともあり、以降、憲法改正論議はほとんど行なわれなくなった。そして憲法改正を唱えること自体がタブー視される土壌がつくられた。
 佐藤栄作内閣の倉石忠雄農相は68年1月、米艦プエブロ号が北朝鮮の巡視船によって拿捕(だほ)される事件が起きたことを受け、日本海の安全に関連させ「わが国の憲法は他力本願」「こんなばかばかしい憲法を持っている日本は、メカケみたいだ」と発言。野党側の猛反発と罷免要求を受け、辞任を余儀なくされた。
 75年5月3日の憲法記念日には三木武夫内閣の稲葉修法相が「私は強烈な改正論者であり、将来の目標として憲法改正を主張することは、思想・良心の自由から見て当然だ」と発言。事態の収拾のために三木首相は憲法改正を行なわないことを明言せざるをえなくなった。
 80年8月には奥野誠亮法務大臣が「自主憲法」に言及。野党の追及に遭ったが、これを契機に憲法論議が再燃した。11月、自民党は74年以来休眠状態にあった党憲法調査会を再開し、81年1月の定期党大会で、運動方針に憲法改正を5年ぶりに掲げた。82年12月には、以前から憲法改正を唱え続けていた中曽根康弘首相が誕生し、改正への期待が一気に高まった。しかし、83年1月の自民党大会では「自主憲法制定は結党以来の党是」との宣言と決議を行なったものの同年12月の衆議院選で大敗北。その後、86年7月の衆参ダブル選挙で大勝。憲法改正に必要な3分の2を占めたものの、結局、実現することはできなかった。
 
明らかな憲法違反を続けるという不誠実
 
 しかし90年代に入ると、国際情勢の激変に伴って、憲法をめぐる論議も新たな局面を迎えるようになった。
 91年の湾岸戦争で総額130億米ドルという大金を出しながらも憲法を理由に人的貢献をしなかったことから、海外から失笑され、国内では「一国平和主義」という批判が巻き起こった。そのためペルシア湾に自衛隊の掃海艇を派遣した。92年にPKO法(国連平和維持活動協力法)が成立。92年9月のカンボジアを皮切りに自衛隊の海外派遣が続くようになる。こうした国際情勢の下で、社会党の中にも従来の非武装中立では通用しないとの認識が生まれた。
 92年11月には江田五月社民連代表を中心に、社会党の若手議員も加わった「シリウス」という政策研究会が発足。自衛隊の存続を認めたうえで、安全保障基本法の制定を提唱した。また93年1月に社会党委員長となった山花貞夫は、「創憲論」を提唱。しだいに社会党は自衛隊合憲論に傾き94年6月、自社さ連立政権によって社会党の村山富市首相が誕生すると、ついに社会党は公式に自衛隊を合憲と認める。
 マスコミの論調も、90年代に入ると大きく様変わりした。読売新聞社は湾岸戦争勃発後、社内に憲法問題調査会を設置し、94年11月に「憲法改正試案」(第一次試案)を発表した。この試案は、現行憲法の原理を抽出して合理的に組み立てたものだが、合理的ゆえ欠落もあり、日本国の憲法のあり方としては疑問な面がある。だが、最大部数を誇る新聞社が憲法改正を提言し、試案まで作ったことは、憲法改正をタブー視する風潮を変える上で大きな功績があった。
 しかしこの読売試案を、日本の憲法学会は完全に無視した。今でもそうだが、憲法学界の90%以上がいわゆる「左派」である。日本の憲法学に大きな流れをつくったのは、憲法問題研究会の発起人のひとりでもある東大の宮沢俊義教授が築いたいわゆる宮沢学派である。宮沢が唱えたのは「8月革命説」で、45年8月15日に法学的な意味における革命が起き、天皇主権から人民主権に移行した。そして主権者となった人民が自ら作ったのが現行憲法だというものだ。こんな考え方が憲法学者の間ではいまだに通説になっている。
 ソ連の脅威が高まっていた80年にも、東大の小林直樹教授が憲法の学会で「仮にどこかの国が大軍をわが国に差し向けてきたとしても、日本の文化に尊敬の念を抱くようになったとすれば、あたかも国費留学生を送りこんできたような結果になるかもしれない」という発言をしていたほどだ。
 しかし、最近のメディアヘの露出を見ても、憲法学者はほとんど力を失っている。国民の憲法に対する見方がそれだけ変化してきたことの証しだろう。
 97年頃から憲法調査会の設置の動きが始まり、00年1月には衆参両議院に憲法調査会が設置されたものの国民やマスメディアの反応は鈍いままだった。しかしこうした日本人の意識を画期的に変化させたのが、昨年9月の日朝首脳会談で、北朝鮮が日本人の拉致を認めたことである。その前文で、外国勢力は「平和を愛する諸国民」としてだけ位置づけしている日本国憲法の限界が、ここにはっきりと露呈したのである。
 これまで日本国憲法は、いわば完全に無視される存在だった。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」といっておきながら、最新鋭のイージス艦を4隻も所有し、れっきとした軍隊である自衛隊を海外に派遣している。後に修正したものの、今年1月には石破茂防衛庁長官が「北朝鮮がミサイルに燃料を注入したのを確認した時点で、日本への攻撃と見なす」と発言しているから、先制攻撃もできるかもしれない。まさに、なんでもアリ。解釈でここまでできるなら、いっそ憲法などなくてもいいということになる。
 しかしそれでいいのだろうか。憲法はその国の最も基本となる姿勢を表明したものであり、対外的な顔をもつ。しかし、解釈次第で何でもできるようなら、法治国家として諸外国にこれほど不誠実な対応はない。いわば「世界に先駆けて禁煙国家を宣言」といいながら、現実にはへビースモーカーで「米国にいわれたから吸っている」と嘯(うそぶ)いているようなものである。
 戦後60年を目前にようやく憲法改正に向けた動きが本格化しつつある。しかし、現実の改憲に向けては、衆参それぞれの総議員の3分の2以上の賛成と国民投票の過半数の賛成という事実上不可能に近いハードルがある上、現在行なわれている議論にも、大きな欠落がある。憲法がもつべき「国柄」がほとんど論じられていないということだ。
 どこの国の憲法も、国家と国民との間で交わされる社会契約という近代的意味の憲法と、その国の政治的伝統や文化を反映した本来的な意味の憲法という、二重の意味合いがある。
 ところが現行憲法には、本来的な意味の憲法、いいかえれば「国柄」といった側面がほとんどない。憲法が日本の憲法たりうるには、日本という国の「国柄」を反映するものでなければならない。憲法改正の際には、その視点が不可欠であることを忘れてはならない。(談)
 
戦後の主な改憲論議
 
1946年6月 日本共産党が「日本人民共和国憲法(草案)」発表。
11月 社会党機関誌に原彪議員が「われわれは社会主義の理念を憲法にうたうことを主張したけれども、それができなかった」と主張。
47年5月 日本国憲法施行。
49年3月 丸山真男ら政治・法学者で構成する「公法研究会」が「憲法改正意見」を発表。前文の「日本国民」を「日本人民」にする、第9条第1項から「国際紛争を解決する手段としては」を削除、などを主張。東京大学「憲法研究会」も「憲法改正の諸問題」を発表(5月)。
50年6月 朝鮮戦争勃発。警察予備隊設置(8月)。
51年9月 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印。
54年7月 自衛隊発足。吉田内閣は「自衛隊は9条が禁止する戦力にあたらない」との見解を発表。
12月 鳩山内閣誕生。「占領政策是非の手始めとして憲法の改正が必要であり、ことに第九条の改正は必要である」と明言。
55年10月 自由党と日本民主党が保守合同で、社会党の右派左派が統一。「自由民主党」結成(11月)。「55年体制」が成立。
57年8月 岸信介内閣の下で憲法調査会設置。社会党は「憲法違反の疑いがある」と参加拒否。
58年6月 宮沢俊義ほか憲法調査会に批判的な学者らが「憲法問題研究会」設立。
60年6月 安保闘争激化で東大生の死者。新日米安保条約が自然成立。
64年7月 憲法調査会が最終意見書を提出。9条の改正不要とするなど「解釈改憲」の意見が波紋を呼ぶ。
68年2月 倉石農相が「こんなばかばかしい憲法をもっている日本はメカケ」と発言。罷免要求を受け、辞任。
72年6月 前年に活動再開した自民党憲法調査会が「憲法体制大綱草案」を発表。
75年5月 稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席。「私は強烈な改憲論者」と発言。
78年7月 来栖弘臣・統幕議長が有事の際の現行の自衛隊法について「いざという時、第一線指揮官が超法規的措置をとらざるを得ない」と発言。引責辞任。有事立法論議が起きる。
82年12月 自民党総裁に中曽根康弘が就任。翌年1月の党大会で「自主憲法制定は結党以来の党是」と発言。
90年8月 湾岸戦争勃発。自衛隊の海外派遣を認めるPKO法案が廃案になり、総額130億ドルの資金提供を行なう。
92年6月 PKO協力法成立。
93年5月 小沢一郎新生党代表幹事が『日本改造計画』で憲法改正を提唱。
94年6月 村山内閣誕生。自衛隊合憲、日米安保条約などを肯定する方針を表明。
11月 読売新聞社が「憲法改正試案」を発表。
99年7月 憲法調査会設置が決定。
2001年1月 国会に憲法調査会設置。
02年9月 日朝首脳会談。北朝鮮が日本人拉致を認める。
11月 憲法調査会・中間報告を発表。
03年3月 米軍イラク攻撃。
6月 有事法制関連3法案が成立。
 
◇八木 秀次(やぎ ひでつぐ)
1962年、広島県生まれ。
早稲田大学大学院政治学研究科博士中期過程中退。
現在、高崎経済大学助教授。


 
 
 
 
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