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1991/10/25 読売新聞朝刊
米外交文書の宮沢発言 再軍備で苦渋の吉田氏が米の圧力を逆利用?(解説)
 
◆「本音は改憲派」との声も
 宮沢喜一・元副総理が、三十八年前の対米交渉中、憲法第九条改正を要求してくれと米国に持ち掛けた事を記した米外交文書の存在は、同氏が師と仰いできた吉田茂氏に対する歴史的評価の論議に新たな一石を投げかけそうだ。
 (政治部 池田豊治、鬼頭誠)
 宮沢氏はこの外交文書の記述を否定し、話を持ち掛けたのは米側だったとしている。しかし、宮沢氏自身「親友」だというこの文書の記述者、ラルフ・リード氏の三十八年ぶりの証言とは食い違っている。
 また、この交渉中、米側は少なくとも公式協議の場においては一貫して「憲法問題は日本の国内問題」との立場を守り、それ以上には踏み込もうとしなかったことが今回の外務省公開文書で明らかにされてもいるため、宮沢氏の釈明だけでは疑問は残る。
 もちろん、米側文書の通り日本側からの依頼だったとしても、リード氏が指摘するように「訪米団のスポークスマン役」という当時の宮沢氏の立場上、すべて吉田首相や池田勇人特使の意向を代弁したものと理解するのが妥当であり、発言内容が直ちに宮沢氏の真意だったとは必ずしもいえないだろう。
 そこで、吉田氏が改憲要求の依頼主だったと想定した場合、日本に対し本格的な軍備増強を迫っていた米側から、その本音ともいうべき「憲法第九条改正」をわざわざ引き出そうとした吉田氏の狙いは何だったのだろうか。
 一連の交渉の中で、日本側は「吉田政権が直面している困難な事態」を繰り返し強調した。
 それは、吉田氏の「経済優先・日米安保依存の自衛力漸増」路線に対し、「対米従属」と非難する自主防衛・改憲論者の鳩山一郎氏(のち首相)など、反吉田の保守グループと、反米野党勢力の双方から挟み撃ちされ、苦境に立たされていた状態を指していた。
 こうした状況の中で、米側が憲法改正を要求してくれれば、少なくとも野党に対し、吉田氏は「米側の要求を見ても、冷戦激化により憲法制定時とは国際情勢が一変したのが分かるのではないか」と強調することで、米側の過大な再軍備要求を抑える自衛力漸増路線を正当化しやすいと、判断したのかもしれない。
 一方、保守の改憲グループに勢いをつけさせかねない米側からの改憲要求は、改憲無用論の吉田氏に他にどんな利点があったのか。
 米側の後押しを受ける格好で、改憲勢力は一時的に力を得ても、吉田政権への「対米従属」非難がしにくくなる分、吉田氏にとっては「むしろ、しのぎやすくなる」とでも読んだのか。
 それとも、宮沢氏の近著「戦後政治の証言」が伝える通り、池田氏でさえ信じていたように「吉田首相の本音は憲法改正論」だったのか。つまり、鳩山氏ら自主防衛論者のように急進的な改憲論ではなかったにせよ、日本経済が力をつけた将来には、憲法を改正し自衛力の保持を明記すべきだと考えていたのか。
 そうだとするなら、吉田氏の対米要請は、将来を見越した改憲への布石だったことになる。
 ニクソン米副大統領(当時)が来日した際に行った演説での「憲法第九条は米国の誤り」発言との関連はどうか。
 演説が宮沢発言のわずか一か月後だっただけに、宮沢氏の発言を受け、「米国が憲法第九条に言及しても日本政府を困らせる心配はない」との心証を得たに違いない。その意味では、宮沢発言はニクソン演説への呼び水の役割を果たしたといえそうだ。
 ただ、皮肉なことに、ニクソン演説は改憲勢力を勇気づけ、翌月には自由党内に憲法改正調査会を発足させたものの、それに対抗して護憲運動も本格化し、結果的には改憲運動をしりすぼみにさせていく。
 「吉田氏は改憲にずっと反対だった」とする宮沢氏の見解に従えば、吉田氏の米側に対する改憲表明の要請は、護憲勢力の潜在力を正しく読み、改憲を阻止するための高等戦術だったと見ることができる。
 その一方、「吉田氏は改憲派だった」とする池田氏の見方に従えば、吉田氏の改憲への布石は生きなかったことになる。


 
 
 
 
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