2001/07/05 朝日新聞朝刊
総理、憲法を読んで下さい 靖国参拝(社説)
歯切れがよく、国民の素朴な感情に響く。
小泉純一郎首相の言動に人気が集まる理由の一つはそこにある。靖国神社への参拝論議を巡っても、首相の口から発せられる言葉は単純にして明快だ。
「家族と離れ、戦場に赴いた方々の気持ちを思うと本当に胸が打たれる」「なぜ戦没者に敬意を表する行為がこれほど批判されなきゃならないのか」
しかし首相たる者、個人の思いは抑え、この国の最高指導者として身を律し、行動を慎まなければならない時がある。靖国参拝は、まさにそのケースに当たる。
近隣諸国への配慮が求められるのは言うまでもない。同様に、あるいはそれ以上に心を砕くべきは、「国及びその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた日本国憲法との関連である。
首相自身にも、そして首相の発言に拍手を送る人々にも、この認識が決定的に欠けているのではないか。ことは国のありようの根幹にかかわる問題だ。情緒に流されず、政教分離原則が憲法に盛り込まれるに至った経緯を振り返る必要がある。
戦前、神道には事実上、国教の地位が与えられた。信仰の強要や他の宗教の弾圧が繰り返され、市民生活は息苦しさを増して、国もろとも坂道を転げ落ちていった。いまの憲法が信教の自由を保障するだけでなく、国家といかなる宗教との結び付きも認めない規定を設けたのは、過去への深い反省があったからにほかならない。
首相個人が人知れずこうべを垂れるのであれば、むろん問題はない。しかし、終戦記念日という節目の日に、国民注視の中でことさら参拝を実施したらどうなるか。
国は靖国神社という一宗教法人を特別扱いし、他の宗教団体に比べて優越的な地位を与えている。やはり靖国は別格だ――。そうした印象が広がるのは容易に想像できる。他の閣僚や首長、議員、さらには天皇に参拝を求める圧力も強まるだろう。
だからこそ、いくつもの裁判所が「首相の公式参拝は憲法に違反する」、もしくは「その疑いが強い」と指摘してきたのである。「公式」ではなくただの参拝だ、などと言葉や形を取り繕ったところで、社会に及ぼす効果に本質的な違いはあるまい。
愛媛玉ぐし料訴訟の最高裁判決で、尾崎行信判事は次のような補足意見を書いた。
「もはや国家神道の復活など期待する者もなく、不安は杞憂(きゆう)に等しいとも言われる。しかし、歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」
心の内に国は土足で踏み入らない。自由を最大限保障し、「個」を尊重する。そんな理念に貫かれた憲法を、私たちは戦争という惨禍と引き換えに手にした。以来、何度か危うい状況に直面しながらも、大切な財産を守り、育ててきた。
その重みに首相は思いを致すべきだ。
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