1999/05/03 朝日新聞朝刊
「個」が尊重される明日を 憲法記念日(社説)
日本国憲法が施行されてから五十二年がたったことし、憲法をめぐって見過ごせない動きが起きている。
国会に憲法調査会を設置する計画が進んでいる。「まずは論議を」と唱えるが、憲法改正への空気を盛り上げ、道筋を探ろうとする政治的意思が、その原動力になっていることは明らかだ。運用次第では憲法九条の歯止めを無力化しかねない危うさをはらむ日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法も近く成立する。
私たちは、当面の日本社会の改革には、憲法理念を貫くことこそが必要だと主張してきた。二十一世紀を迎えようとするいま、憲法が未来に向けて果たすべき役割について、一層の熟慮が必要だと思う。
憲法は「不磨の大典」ではない。真に必要な改正条項が生じた、との国民の合意があれば、改正すべきである。
だが、さまざまな改正論のうち、情報公開や環境権の強化など国民の支持が幅広くある事項は、憲法理念に沿ったものであり、改正しなくても制度の充実は図れる。
改正しないと実現できないとみられるのは、集団的自衛権の行使を可能にするなど九条にかかわる事項だが、その改正には多くの国民が反対している。
調査会設置論者の中には、アピールしやすい項目のかげに九条改正という「よろい」を隠し持つ向きがある。引き続き厳しい目を注いでいかねばならない。
こうした動きとからめて注目したいのは、日本社会の停滞感が強まる中で、「公共性」という言葉を手がかりに、将来像を描こうという試みが盛んになってきたことだ。そこには二つの流れが見て取れる。
ひとつは、日本社会の「解体」を憂え、かつてあった公共性を「再建」しようという立場、もうひとつは、日本社会の「成熟」を踏まえ、新たな公共性を「創造」していこうとする立場である。
人々が私的な世界に閉じこもることなく、公的な領域にかかわっていくべきだという認識では、両者にあまり差はない。
前者は、国民が基本的に同質な価値観を持つとみるところから出発し、伝統的な道徳や権威、文化を復権させれば、失われた秩序と規律を回復できると考える。
後者は、この社会は異質で多様な価値観を持つ人々の集まりだという前提に立ち、合理的な民主主義の手続きに習熟して対立や摩擦を解消することを重視する。
どちらが、私たちの明日にふさわしい考え方だろうか。
憲法は後者の立場に立っていると思う。例えば一三条の前段「すべて国民は、個人として尊重される」は、個々の生き方や考え方に対し、国家が特定の価値観に立って干渉するのは許さない、ということだ。
不登校のこどもが増えるにつれて、いつどこで学ぶかはこども個人の選択の問題だという考え方が広がりつつある。
日の丸、君が代は事実上、国旗、国歌としての扱いを受けてきた。だからといって、旗を掲げたくない、歌を歌いたくない個人に、国が強制するのはよくない。
秩序や規律を重くみる立場からは、「混乱」であり、「共同体の崩壊」にも映るのであろう。しかし、どの国をみても、多様な価値の共存を認めるのは、避け難い歴史の流れといえる。要は、いかに共生と連帯の仕組みをつくっていくか、なのだ。
私たちがいう「憲法が未来に果たす役割の熟慮」とは例えばそのことである。
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